どうぞ、ここで恋に落ちて
「待って古都、それなら家まで送るから」
スーツのジャケットと鞄を引っ掴んで寝室から飛び出してきた樋泉さんに、私はゆるゆると首を振った。
「大丈夫ですよ、そんなに人通りの少ない道もないし。それよりはやくすずか先生のところへ行かないと」
すずか先生のお家がどの辺にあるのかわからないけれど、今は急いで向かってもらったほうがいい。
そう思って彼の申し出を断ったのに、樋泉さんはなんだか納得がいかないみたいだ。
聞き分けのない子どもみたいに、頑なに私をひとりで行かせようとしない。
「俺の都合で古都を家に置いて行くのだって嫌なのに、そんな顔した古都をひとりで帰すなんてできないよ」
樋泉さんはもどかしそうに右手を伸ばし、私の頬へ滑らせる。
置いていかれる立場なのは私の方なのに、まるで樋泉さんのほうが取り残されるみたいに心細そうだ。
困った顔をする樋泉さんの揺れる瞳の中に同じ顔をした自分が映る。
私はハッとして息を止めた。
私、もしかしてずっとこんな顔してたの……?
何かに怯えているみたいに自信がなさそうで、今にも逃げ出してしまいそう。
こんな顔してちゃ、樋泉さんにも仕事にもちゃんと向き合えるはずもないのに。