君のとなりに
 トイレから出ると、斜め前に座っていた男がそこには立っていた。

「桜ちゃん。」
「はい。」

 これは誘われるか、と思った。いつもの流れ。このままホテルか自宅か、どっちかは知らないけれど、やることは同じだと確信した。

「あのさ、俺と一緒に…。」
「行かない。」
「え…?」

 断らないはずの自分の声に重なった、断りを入れる低い声。大きくて温かい手に、いつの間にか腕が掴まれていた。

「帰るぞ。」
「えっ?ちょっ…ちょっと…!」

 振りほどけない程度には強く、ただ、痕が残らない程度には加減されて腕が引かれる。仏頂面の男、もとい降谷についていっても、やることが同じだとしたら嘘だらけの世界はやっぱりそうであると信じられる。

「お、お金払ってないよあたし…!」
「どうせ払う気なんてなかっただろ。」
「う…。」
「それに、男は2人分支払っている。元々そういう仕組みだ。理不尽なことに。」
「…理不尽、って。」

 理不尽なんて大真面目に言う人を椿以外に知らない。
 手加減されているとわかるその優しさに、なんだか無条件に安心して、足元がふらついた。

「っ…。」
「…大丈夫か。」

 低い声が甘く聞こえたのは、多分酔っているからだろう。断らずに飲み続けていたものだから、許容量を大幅に超えているのは間違いない。立ちくらみもするし、足元も覚束なくなってきた。

「あ、おい…お前寝るなって…!」

 ぐらりと歪んだ視界に温い左肩。それが目を閉じる前の最後の記憶だった。
< 5 / 30 >

この作品をシェア

pagetop