【好きだから別れて】
出産の二時間後。


タンカーに乗せられ、分娩室の近くに用意された病室に移されたあたしは、興奮が覚めずにいた。


たった数時間前までこのお腹の中にいた命が、新生児室で別の道を歩み始めてる。


自発呼吸をし、あたしに頼らずとも心臓を動かしている。


我が子の人生は否応なしに始まったんだ…


あたしはいきなりへっこんでしまったお腹を名残惜しく撫で、不思議な感覚にみまわれながらとりあえず落ち着こうと努力してみる。


が、やはり興奮はおさまらず、いてもたってもいられなくなり落ち着ききらぬ内に真也へ出産報告の電話を入れてみた。


すぐこの場に駆けつけてくれるのかと期待に胸を膨らませ…


だが情の薄い男はこの一世一代の状況でも所詮、他人事だ。


出席中の友達の結婚式で大量の酒を飲んだらしく「式が終わったら行く」と言うなりあっさり電話を切られた。


「おめでとう」なんて言葉すらなくあっさりと。


呆気にとられ携帯片手に呆然とするも「奴に淡い思いなど描いてはいけないんだ」と思い知らされた気分だった。


子供が生まれれば真也だって変わる。


少しは角が取れて柔らかくなる。


そんな期待をしていたが、ものの見事に裏切られてしまったのが現実だ。


「ねぇパパ~カメラ持ってきたぁ?」


どうなってるのか扉が開いてるのか病院なのに、隣の個室から漏れてくる声がやたらうるさくて、聞きたくもないのに耳に入ってくる。


あたしの1日前に出産したらしく、漏れてくるのは幸せな声だった。
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