はじめての男
2
 ポロッと、松茸に飾り切りされた小芋が、持ち上げた箸から滑り落ちた。
 再びもみじの形のニンジンの隣に転がる。
 私の物思いはワープした七年前から、ふいに祖父を「偲ぶ会」へと戻った。
 煮物の小芋で過去を思い出すなんて、乙女チックにも程がある。いくら巧妙に「松茸」に仕立てられていると言っても。

 まったく……、「はじめての男」というのは厄介なものだ。
 それが近くに住み、親同士が仲の良い、一つ年上のイトコと言うのは厄介どころの騒ぎではない。
 何せ、二人の意志に関係なく顔を合わせることが、問答無用で起きる。
 ずっとお互いを避けてきたが、今日もこうして祖父の葬儀で顔を合わせることになった。
 私としては、あの忌まわしい出来事を、永遠に海馬の片隅から追い出してしまいたいのだが……。
 
 小さく咳払いして、四つ離れた斜め向かいの席から、チラリと亮介を見た。
 彼は母の姉の京子伯母さんと大友の伯父さんの隣に座って、葬儀の膳に箸をつけている。
 背が高いから込み合ったテーブルについていても、頭一つ分突き出て目立っている。
 私は祖父の葬儀に遠方からやってきた親戚の昔話に相槌を打ちながら、この前亮介を見たのはいつだったかと思いを巡らせた。
 大学生になってから、この街を出て一人暮らしを始めた彼とは顔を合わせることは無くなった。
彼は社会人になって、ぐんと落ち着いて大人っぽくなった。短く整えた髪に、黒いスーツがよく似合っている。
 良い大学を出て良い会社へ入った、京子伯母さんの自慢の継子。私にとっては、サイテーのゲス野郎だけど。

 イトコ同士といっても、私と亮介は血の繋がりはない。彼は母の姉である京子伯母さんの再婚相手の連れ子なのだ。
 大友の伯父さんは亮介がまだ三つの時に奥さんを亡くし、それから幼い亮介を抱えながらレストランを経営していた。そこへ料理好きの京子伯母さんがコック見習いとして就職したのだ。二年後めでたくも二人は結婚して、伯母さんは亮介を実の子以上に可愛がって愛しんできた。今でも、仲の良い家族だ。

「亮ちゃん、今日はありがとう。忙しいだろうに、仕事休んでくれて」
 母がかしこまって座っている亮介の肩をポンポンと叩いて、背後から声を掛けた。
「いや、じいちゃんには本当に可愛がってもらったのに……。亡くなったなんて、信じられないよ。美奈叔母さん……」
 辛そうに目を細めて、亮介は母を振り向く。
 
 同居していた私の祖父――父の親だが――は、確かに彼にとって一番の「じいちゃん」だったと思う。
 彼の父、大友の叔父さんは関西出身で、私の母と京子叔母さんの実家は静岡だ。都内には親戚は少ない。
 いつもそばにいた私の祖父を、「じいちゃん」と言って小さい時から慕っていた。
 無邪気だった幼い頃を思い出すと、項垂れた亮介の姿にじわりと涙が滲んでくる。

 もともと私の家があったこの街に、大友一家が引っ越してきたのは、母が伯母さんに勧めたからだ。
 実の母を知らず、京子伯母さんも仕事をやめられないと知って、母は心底亮介をかわいそうに思ったようだ。
 それで伯母さんが働いている間、我が家で預かることになった。つまり、私と彼は一人っ子同士で、物心ついてからずっと兄妹のように一緒に大きくなったのだ。
 それなのに、今では他人行儀な笑みまで貼り付けねばならないとは……。本当に煩わしいことこの上ない。
 思わずため息が零れる。

 
 会場の別室にはもの悲しさが漂っている。
 壇上には白布で包まれた骨箱と、優しく微笑む祖父の遺影が皆を眺めている。
 慌ただしく、それでも厳かに祖父を送ったが、その突然の死を今でも誰もが受け入れられない。

「人生、一寸先のことなどわからんものだ」と、笑っていた祖父らしく、本当に突然脳梗塞で倒れてそのまま眠る様に亡くなった。
 先のことが少しでもわかっていたら、祖父にもっと優しくできたのに……。人生とは突然に、とんでもなく辛いことが起こるものだ。

 四日前祖父が病院に担ぎ込まれ、程なく亮介もやってきたが、驚きと悲しみとでゆっくり言葉を交わすことも出来なかった。
 それに、お互い祖父の死を悲しんでいても、私たちの溝は深い。
 こんな場合でさえ亮介も私に会うことを、煩わしく思っているのは確かだろう。そう……あの初体験はそこまで私たちを引き離した。
 
 そんなことを思っていると、亮介が顔を上げたので思わず視線がぶつかった。
 私は仕方なく愛想笑いをして会釈した。それを見て彼は眉根を寄せて睨んできた。
 まったく、露骨に嫌悪感を表しているわけだ。被害者は私だろうと、叫びたくなる。

「優しいお祖父ちゃんだったわね。亜由美ちゃんのこと、日本一美人の孫やって、よく自慢してたわ。花嫁姿を見たかったでしょうに」
「伯母さん……」
 隣の席で父の姉の千葉に住む伯母がハンカチで目頭を押さえた。皆、沈痛な顔で、八十歳で逝った祖父を偲んでいる。
 元教師だった優しくて穏やかな祖父は、私の大好きな家族だった。
 忙しい父に代わって、遊んでくれていろんなことを教えてくれた。飾られた遺影を見ると、途端に胸が詰まる。
「お酒無くなってきたね。頼んでくるわ」
 涙が零れそうになって、慌てて席を立った。
 
 祖父が逝ってからずっと泣きっぱなしなのに、まだ悲しみに打ちのめされる。もう祖父はいないのだと思うと、いたたまれなくなった。
 
 
 別室から出て、二階のガラス張りのエントランスへ上がった。
 入り組んでいて人目には着かない場所を見つけて、ハンカチで涙を拭った。長い髪をシニヨンにまとめてアップにした首筋がひんやりして、寂しさが纏わりつくようだ。

 強化ガラスの大きな窓越しに、天を見上げるように澄んだ秋晴れの空を望む。祖父の人柄のように、穏やかな日だと思うと再び嗚咽が込み上がってきた。

「アユ、大丈夫か?」
 ガラス窓に額をつけ鳴き声を漏らしていた私の後ろで、心配そうな声がした。驚いて振り向くと、亮介が眉をひそめて口をきつく結んでいた。

「りょ、亮ちゃん……」
 私は驚きのあまり言葉がつっかえてしまって、ただ亮介を見た。

 彼と一メートル未満の距離で向かい合うのは何年ぶりだろう。
 二十五歳になって、高い鼻梁と涼しげな目はきりっとして一段と男らしくなった。
 あの忌まわしい日から、二人だけで話をすることも無くなって……、いや、親戚である以上、年に何回かは顔を見ることはあるのだが。
 あれから七年、私達は大学を卒業して、ともに社会人になった。
 このまま二人の時間などなくても、ちゃんとそれぞれに人生は用意されているはずだ。今更彼の慰めなどいらないと思いつつ、喉に流れる苦い涙をごくりとのみ込んだ。

「お前、辛いだろうと思って……」
 もしかして、心配して追いかけてくれた? 半信半疑ながら暖かい気持ちが湧き上がった。共有する悲しみが、私と亮介を以前の親しみある関係に導いてくれるのかと、一瞬思った。

 彼は潤んだ目を伏せ、小さく頭を振った。
「本当に……信じられないよ。じいちゃんが死んだなんて」
 と呟き、視線を空に向けて涙を耐えているようだ。
「うん、もう家に帰っても会えないなんて、辛すぎる」
 そう答えた自分の言葉に負けてしまって、突然嗚咽が込み上がってきた。
 両手で歪んだ顔を覆い、やばいと思ったが、涙がぶわっと溢れてきた。亮介の前で泣きたくなかったが、肩が震えだすと止まらなかった。
「アユ……」
 と、かすれた声が俯いた頭の上で聞こえた。
 亮介の上着がこすれる音……。震える肩に、手の重みと温かみを感じた。私はびくっと体を震わせた。亮介の手に力がこもった……。このまま抱きしめられるかと、足が一歩前に出た……。
 
 ガツン!
 
 突然大きな、ガラスにぶつかる音。私はハッとして、顔を上げた。
「え……?」
 
 亮介が長身を降り下ろしたような格好で、ガラスに頭をくっつけている。いや、打ち付けている。ぎゅっと目を瞑った横顔が歪んでいるのは、痛みのせいか? 

「だ、だめだ……」
 呻くように亮介は言った。
「ど、どうしたの?」
 私は涙も引っ込んでしまって、驚いて彼を見た。
「あ、いや……何でもない」
 ぶつけた額を片手で撫でながら、彼は壊さなかったガラス窓から数歩下がった。
「よ、酔ったみたいだ……」
 そう言い残すと、呆然とする私に強張った笑いを向けて、くるりと踵を返した。相当頭が痛かったようで額をさすりながら、ふらふらと一階へと階段を駆け下りてゆく。私を振り向きもしないで。

「なんなのよ!」
 頭をぶつけたいなら、ここでなくともガラス窓はある。人目につかないところを探していたのならわかるけど、なんで私の目の前なのか全く理解できない。単に強化ガラスを頭で割ってみたかったのだろうか……。
 
 感傷に浸っていた気分はお蔭で吹っ飛び、ムラムラと怒りが沸き起こった。
 つまりは泣いてる私より窓ガラスを選んだのだ。私との距離を縮める気はないと言うことらしい。

 ふんと鼻を鳴らして化粧が落ちるのも気にせず、涙を拭いとった。
 そして大きく深呼吸した。亮介にかき立てられた苛立ちを吐き出すように。
 
 私達はこのまま向き合いもせずに、気付いたらお互いの結婚式で、親戚として祝杯のグラスを掲げているのだろう。

 あの初体験の日、私達はお互いを傷つけあった。おかげで磁石のN極、いやS極同士なのだ。自然に体が拒否反応を起こす。
 私を避けて、ガラスと抱き合おうとした亮介のアホさも、理解できないことはない。
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