MAHOU屋
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私は小説家をしています。
「小説家」と名乗るにはまだまだ力不足ではありますが、本を出版社から出してもらって、書店で買えるのだから、世間一般ではそう認識されていると思います。
けれどそれはここ数ヶ月の話で、至るまでには長く時間がかかりました。


私は小さい頃より本に囲まれて育ってきました。
そのためか小説家になりたいという夢を描くのも当然の環境だったかもしれません。


両親が私に本を与えたのには理由がありました。
水の流れる「ジャー」という音、まな板で調理する「トントン」という音、お鍋が煮える「ぐつぐつ」という音。
それらの音が聞えない私に、頭で「音」というものを理解させようとしていたようです。


本にはたくさんの音の表現が出できます。
それを参考にして、目で見たものを頭の中で音をつける。
それは一種の遊びのようで、子供の頃は暇を見つけては楽しんでいました。
しかし本気で「小説家になりたい」と思い他者に自分の作品を読んでもらったとき、自分がつけた音と実際の音が違うことに気付くことになりました。
「ジャー」「トントン」「ぐつぐつ」という擬音は絵本や児童書の世界で通用し、文芸においての音表現は直接的ではないということに。
たとえば水は「ジャー」という一言ではなくて、「ゴウゴウと出てくる」「ちょろちょろ流れる」と言った具合に、量によってその表現が違っていて、その音の違いが私にはわからなかったのです。
その結果私の書いた表現が読んでいる人にとって間違っていることもあるので、首を傾げ捻り、または、読むことを途中で諦めてしまうことが多かったように思います。


編集部の人は「耳が聞えない」ということを全面に出して出版することを進めてきました。
小説という形ではなく、エッセイという形として。


けれど私はエッセイストになりたいわけではありませんし、物語を綴れる人になりたいと思っていました。
それは小さい頃より本に囲まれて育ち、物語に魅了されていて、自分も同じように人が作り出した世界を誰かに伝えたい、小説家になりたいと渇望していたからです。
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