MAHOU屋
そして「耳が聞えない」と同じように致命的だったのは、「恋をしたことがない」ということでした。
本の中の登場人物に似た感情を抱いたことはありますが、現実にはなかったのです。
それは自分自身が心の中のどこかに「耳が聞えない」という拭いきれない劣等感を持っていて、異性はもちろんですが、同性ともとうまく会話ができない、恋愛以前の問題だったのです。


不本意ながらエッセイストとして仕事をもらえるようになったとき、両親の反対を押し切り、一人暮らしを始めました。
あの本に囲まれた居心地の良い部屋から卒業しようと思ったのです。
しかし、辛いことがあるとすぐに自室にこもってしまう。
結局第二の箱庭になるだけでした。


ゴミが捨てられないという、日常生活に支障が出始めてから、以前ポストに投函されていたチラシのことを思い出しました。
便利屋のチラシです。
自分ではどうにもならない段階になってしまったので、頼むことにしました。


それがきっかけとなって、私は小説を出版できるようになったのです。


私の家に来たのはひとりの青年でした。
私はインターネットで依頼していて、その備考欄に「聴覚障害者」と記載したからだとは思うのですが、彼は画用紙とマジックを持参し、依頼者である私が不安にならないように何度も話しかけてくれました。
男性とこうして話すのは初めてに近く、大きな眼鏡の奥の笑い皺が優しくて、不覚にも心臓が高鳴ってしまいました。
彼にもう一度会いたくなってしまって、掃除が終わったあとに別の依頼を頼みました。
今度は擬似彼氏になってくれないかという依頼です。


彼は私の劣等感を全て受け入れてくれました。
それが仕事だからということもあったのでしょう。
それでも彼の人柄に触れるたび、「また会いたい」という意識が募り、これが「片思い」なんだと胸が苦しくなりました。


擬似だとしても「恋」をしたことで、ゴミを捨てられるようになり、綺麗な部屋を維持できるようになりました。
デートという外に出かける機会を得たことで、身なりにも気を配るようになりました。
生まれて初めて美容院に行き、髪を切り、色も変えることもできたんですよ! 
今まで見えていた世界は、私の目を通してくすんでいただけだったことに、そのとき初めて気付きました。
< 70 / 74 >

この作品のキーワード

この作品をシェア

pagetop