MAHOU屋
そんな私の内面の変化だけでなく、小説家としての内面を磨いてくれたのも彼のお陰です。


私はデートの際に「映画館」「コンサート」「舞台」と音があふれる場所を指定しました。
最初は驚いていた彼でしたが、私が「音を感じたい」と理由を告げると快く受け入れてくれました。
「映画」も「コンサート」も「舞台」も、内容がわからないことも多かったですが、彼のお陰で観ているだけでも楽しかった。
「どんな音でしたか?」と聞くと、「頬に当たる春風のような音です」「水に戯れるカエルのような音です」とひと捻りある答えをもらえたことも大きかったです。


そんな彼が説明する「音」の知識を得た私に、小説を書いてみないかという声がかかりました。
出版に至るまで大変な苦労がありましたが、彼の支えでなんとか乗り切ることが出来ました。
しかし、出版され重版がかかるようになると、私がこうしてお金を払って彼と会うことを出版社の方も、家族も快く思わなくなりました。
そしてそれが彼の職場に伝わったらしく、彼は退職してしまったのです。


どうしても諦めきれなかった私は、彼の職場に乗り込みました。
対応してくれた方が、「いつか来るんじゃないかと思って」とお金を差し出しました。
このお金は彼が貰うべき給料で「仕事の域を超えてしまったので返して欲しい。少ない金額ですが」と伝言をもらいました。
私たちは両想いだった。
それに感動することなく、お湯が沸いたようにふつふつと怒りが込み上げました。


私は彼に会って、このお金をつき返してやりたいのです。


私が何もかも、こうして生きていられるのは彼のお陰だからです。
感謝の言葉も告げられず、自分の気持ちも告げられず、逃げ去ってしまった彼にお金をつき返してやりたい。
お金で解決する問題にしないで欲しいと、切実に思うのです。


私はもう一度、彼に会いたい。


これが私の願いです。
彼の居場所がわからないので、こうして頼ってしまう私を、この手紙が届くなら許して欲しい。
自分勝手で申し訳ないのですが。



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