Darkness~暗黒夢~
【もうすぐ帰る。】

 無表情な黒いキーボードの上を、長く筋ばった指で、いつもの、ピアノを奏でるような軽やかで美しい動きが言葉を紡いでゆく。そして、チカチカと光る白い画面に綴られた文字が、マウス操作により、愛する者の端末へと送られた。

 舞はとても不思議な女性だった。常に身体に月の光をまとっているかのようなオーラが優しく舞を包み、内側から放たれる潤った光が、剣を静かに魅了する。愛し合えば、そこにはまるで“小宇宙”が存在しているかのような深くて安らかな空間を感じ、今までに味わった事のない、深く、乳白色の光に包まれたような悦楽の湖に落とされる。舞はまるで“彼”の為に神が使わした、月の女神・セレーネーの化身のようだった。

 パソコンの電源を落とし、散らかした道具を綺麗に片付けて事務所の電気を落とす。真っ暗闇の事務所内を、ブラインドを下ろされた窓から、幾筋もの線に分割されたネオン灯が照らしていた。

 帰宅しようとドアノブに手をかける。と、剣はそこでふと、何かを思い出したように再び電気を灯すとデスクに戻り、一番下の引き出しから何かを取り出してそれをバッグに入れ、再び電気を落として外に出た。

 いつもの熱気が剣の身体を重だるく包む。剣は身体にまとわりつくそれを振り払うように首を軽く振ると、階段に向かった。




「お帰り」

 ドアを開けた剣の鼻腔に、室内を回遊していたスパイスの香りがふわりと届いた。

「お疲れさま」キッチンから首だけ出して舞がそう声をかけてくる。剣は小さく微笑を漏らし、チラッと舞に視線を投げた。

「水くれる?」バッグを皮張りの黒いソファに置き、フローリングに胡座をかいて左手で頬杖をつく。冷蔵庫から涼やかな音がし、舞がミネラルウォーターを注いだグラスを剣の前のテーブルに置いた。

「すぐできるから待ってて」そう声をかけ、舞がキッチンに戻って行く。剣は頬杖を外すとグラスを持ち、ゆっくり口に運んだ。冷たく冷えた透明な液体が、ゆらりと口腔から喉、食道へと流れてゆく。白のノースリーブに黒いデニムを身につけた舞の美しく華奢な身体が、忙しなくキッチンの中を動き回り、長い腕の先のフライパンの中では、何かが焼ける香ばしい香りがしている。

 いつもは下ろされているシルクの黒髪が、料理の邪魔にならぬよう、今日は首元で銀のバレッタが輝いている。剣は黙ってただじっと、その様を見つめていたが、ふと、グラスを置くと立ち上がり、静かな足取りでキッチンに向かった。

 ピクリと舞が硬直する。剣はコンロの火を止め、戸棚から皿を出そうとしていた舞の腰に力強く腕を回し、引き寄せていた。

 そのまま、ゆっくりと重なる二つの唇。先程まで口にしたばかりのミネラルウォーターで心地よく冷えた剣の唇は、通常の体温を保つ舞の唇にはヒヤリとしたようだった。

 冷房で冷えたフローリングに横たわる二つの細い身体。重なり続ける唇と、絡み合う細い腕と体温が、甘く狂おしい愛の一時を生む。
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