Darkness~暗黒夢~
 その日、仕事を終えた剣は、アトリエとして使用しているマンションの窓辺で、ビール片手に煙草の煙をくゆらさせながら、仕事終わりのけだるい体を癒していた。

 星など絶対に見えない都会の夜空。夜だと言うのに、開け放たれた窓からは暑い空気が我が物顔で流れ込んでくる。ヒートアイランド現象で逃げ場をなくした熱気たちが、夜になっても冷まされる事なくネオンの海を彷徨い、まるで浮遊霊のようだ。剣は金色の前髪をかき上げ、不夜城の中へと、大きく長く煙を吐き出した。

 吐き出した煙の行方を何気なく追っていた剣は、宙のある一点で視線を止めた。次の瞬間、釘付けになる。白いノースリーブのワンピースをまとい、夏の夜風に黒髪を揺らしている美女がそこにいた。

 向かいのビルの屋上、柵を背にして、美女がこちらを見ていた。ネオンのせいで輝きが半減している満月に照らし出された長い黒髪が、まるで上質なシルクのように、一本一本が単独に輝きを放って夜の闇に溶けている。その姿に剣は一目で魅了された。

 妖精……? それとも悪魔……?

 夜風にたなびく黒いシルクが、ザワリと揺れて闇に同化する。剣はまるで、悪魔に魅入られて魂を抜かれた牢人形のように、身体の動き、呼吸すら停めて、その美しい姿に見入った。

 美しいと思った。サラサラと揺れ動く黒髪が月明りで美しいグラデーションを描き、ひらひらと怪しく翻る白いワンピースの裾が怪しい美しさを造り出す。と、剣は突然正気を取り戻し、美女が柵の外側にいる事に気付いて弾かれたように部屋を飛び出した。

 急げ!!

 自分自身にそう命令しながら、ブラックデニムに覆われた長い脚を懸命に前へと動かす。決して眠る事のない明るいネオン街を剣はひた走り、美女がいるビルの下へ辿り着いた時には息が切れ、細い肩が前後に激しく揺れ、金色の髪の生え際から、沸き出る泉の如く汗が流れ、首筋を幾筋も流れ落ちて白いシャツの襟を濡らしていた。

 見上げた藍色の空に、女の美しい姿が確認できる。剣は暗くて重いガラス製のドアを押し開けるとエントランスを駆け抜け、エレベーターではなく、階段を駆け上がり始めた。

 心臓は早鐘を打ち、呼吸は激しく乱れているのになぜか苦しくない。規則正しく響く靴音を足元に引きずりながら、剣は最上階に存在する鉄製のドアを目指した。

 開け!!

 まるで呪文を唱えるように念じながらザラザラしたドアノブを握って、回しながら強く押す。するとドアはあっさり開き、剣はそれまでの己の勢いに押されて思わず前につんのめった。

 暑い熱気と共に、一瞬、香しい花の香りが鼻先をかすめる。その香りに剣が体勢を整え顔を上げると、女が柵の先から剣をじっと見つめていた。

 満月を背にした女のシルクが、黒から銀に変わり、美しい曲線を描くデコルテを優しくかすめる。か細い身体にまとわれた白い衣はまるで天女の羽衣のように、ひらひら、ゆらゆらとベールのように女を包んでいた。

「危ないよ……」

 声をかけたら消えてしまいそうなその姿に、一瞬怯んだものの、剣はゆっくり左手を前に差し出した。
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