Darkness~暗黒夢~
「こっちへ」

 今にも夜の闇に消えてしまいそうな女に向かい、ゆっくり、しっとりとした低音で言う。こんなに美しい女性(ひと)がこんな所にいるのに、なぜ誰も気付かないんだろう。

 剣の中指にはめられているシルバーリングが月明りを反射して輝いた。剣はゆっくり足を前に出し、女へと歩み寄った。

「おいで」

 まるで恋人にでも言っているような優しいテナー。剣は柵の前まで来ると、伸ばしていた左手に右手を伴わせた。

「さぁ」

 吐息と声の中間の響きが、女の聴覚に寄り添う。女の美しく白い指が、ゆっくり柵を握り、やはりゆっくりと、上半身が剣の方へ傾けられた。

 香しい花の香りと共に、剣の腕に抱き取られた女の身体が剣の胸に吸い込まれる。二人は言葉を交わす事なく、しっかりと互いを抱き締めた。

 捕まえた……。

 なぜ女がこんなところにいるのか、何をしようとしていたのか、そんな事、この瞬間に剣の中ではどうでもよくなっていた。女が例えば悪魔であっても、今宵こうして出逢えた事、生きている事がたまらなく嬉しかった。




【仕事に行きます。
キッチンにサラダとサンドイッチがあるから、食べてね】

 美しい指先から生まれた美しい藍色の文字が、真っ白なメモ用紙にさらさらと認められている。剣は相変わらず何も身にまとっていない状態で、高みからそれを眺めていた。

 "仕事"……。

 素足のままキッチンに向かい、黒い冷蔵庫からサラダとラップに包まれたサンドイッチを取り出す。が、一目見ただけで、剣はすぐにそれらを冷蔵庫に戻し、代わりにロックアイスとグラス、戸棚からはブランデーを出した、ふと、二つ並んだペアカップに目を止めた。

 外側が黒で、内側が白の、緩く流線形を描いているマグカップ。その隣には外側が藍色で内側が白の同じマグカップが、寄り添うように置かれている。

 リビングに戻りながらブランデーを開け、ロックアイスを乱暴にぶち込んだブランデーグラスに、トクトクと小気味良い音を響かせながら琥珀色の液体を注いでゆく。昨晩のルビーたちはもう、この部屋のどこにも、その姿を残してはいなかった。

 グラスをあおった視線の先に、例の丸められた新聞紙が映る。端正な顔に美しく誂えられたダークブラウンの瞳に影が宿った。剣は静かにそっと、その瞳を現実世界から遮断した。
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