ウ・テ・ル・ス
 突然背後から声を掛けられて、驚いて振り返るとすぐ間近に秋良がいた。あまりにも近づいて立っていたので、真奈美は後ろに飛び下がり、その拍子に、野菜が置いてある台に足をひっかけてよろけた。秋良はその逞しい腕で、そんな真奈美をしっかりと抱きかかえた。男性の腕に抱かれたことのない真奈美は思わず赤面しながらも、その腕の中に居ると、いままで感じたことのないような安心感を覚えるのを禁じ得なかった。この腕ならこのまま失神しても、きっと軽々と自分を抱き上げてくれるだろう。
「なんでここに?」
 真奈美は慌てて体制を立て直して、わが身を秋良の腕の中から離した。
「電話にも出ないし、家に寄ったらここだと言われた。」
「家に寄ったんですか?」
「なんか問題でも?」
「別に…良いですけど…。」
「何を悩んでいるんだ?」
「久しぶりに、お母さんに家庭料理を食べさせたいんですけど、結構野菜が高いから…。」
 そう言いながら財布を覗き込む真奈美。しばらくそんな彼女を見ていた秋良が真奈美の腕を取った。
「来い。」
 秋良はスーパーの入口へ戻ると、一番大きなショッピングカートを引出し、真奈美の腕を取って各売り場を引きまわした。有機野菜の白菜、椎茸、長ネギ、ニンジン、高級豆腐、葛切り、うどん、そして高級だし昆布。食材の買い物など滅多にしないはずの秋良なのに、解っているのかいないのか、どれもが、大陳のお得品ではなく、今まで真奈美が手を出したことのない高額な棚にあるものばかりだ。高級なスーツ姿でカートを押しながら食材を買う秋良が、妙にアンバランスで、真奈美の顔にも自然に笑みが浮かんだ。値段も賞味期限も見ずに、次々とカートに投げ込む彼は、ちょっとかっこ良いかも…。いやいや、たいした買い物ではないのに、そんなことを感じるのは、自分の身体によっぽど貧乏が身に着いてしまったのだと、慌てて打ち消した。
「いったい晩御飯は何を…。」
 真奈美の問いに答える代りに、秋良は彼女を精肉売り場へ引き連れて行く。そこで、高級国産和牛を指定して、薄くスライスするように注文した。
「今夜は、しゃぶしゃぶだ。」
「そんなこと言っても…ガスコンロも、しゃぶしゃぶ用の鍋もないし…。」
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