凪の海
 できないならできないと、結論だけ言えばいいのに…。どうもプライドの高い職人さんは、自らの技術を話さねば気がすまない人種らしい。まあ、断られるのは十分予想はしていたが…。しかし自分の本当の目的は別にある。その目的を果たすべく、マルティン氏とのやり取りの最中でも、佑樹の姿を探した。しかし、やはりその姿は見つけられず、佑樹が就業している痕跡すら発見することができなかった。工房は決して広くない。また、別室があるとも思えなかった。本当にここで修行していれば、会えないわけない。わざわざグラナダまで来たのに…。汀怜奈にひたひたと失望感が忍び寄る。
「ところで…セニョリータ。もしかしたらあなたは、セニョリータ・テレナ・ムラセではありませんか?」
 そう、この地球上、ガットギターに関係する人間で彼女のことを知らない人などいないのだ。汀怜奈は恥ずかしそうに黙って頷いた。
「いや、感激だな。あなたのような世界的なギタリスタに来ていただけるなんて…。」
 しかし、感激して歓迎するマルティン氏の言葉など汀怜奈の耳に入らない。彼女は全く別なことを考えていた。思い切って佑樹のことを聞いてみようかしら…。
「不思議ですね…高名なセニョリータ・ムラセが、失礼ながら、こんな素人じみて粗暴な作りのギターを修理したいなんて…。」
 マルティン氏が、汀怜奈と橋本ギターを見比べながら首をかしげる。
「よっぽどいわくがあるギターなんでしょうね…。」
 汀怜奈は自分の目的が見透かされたようで恥ずかしさのあまり、橋本ギターを奪い返したい衝動に駆られた。
「わかりました。セニョリータ・ムラセのお頼みということであれば、特別に修理して差し上げましょう。見たところ、ブリッジに多少浮きが出ているようですね。そのほか、粗を探せばたくさんありますが…。」
「ブリッジだけで結構です。」
「わかりました。このブリッジをはがして、接着する部分のトップ板の塗装をあらためて紙やすりできれいにし、うちのブリッジと交換して張り替えましょう。」
「すみません。よろしくお願いします。あの…修理代は。」
「この程度の修理でしたら代金はいいですよ。そのかわりお願いがあります…」
 マルティン氏がカメラを工房の奥から持ち出してきた。
「来ていただいた記念に、写真を撮らせていただいていいですか?」
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