凪の海
第2楽章
 千葉女子高と自宅を往復する日々。相変わらずミチエの毎日は忙しかった。そしてそんな毎日の中で、泰滋からの手紙はほぼ1カ月に3通くらいの間隔で届いた。ミチエが返事を一通も返さないにもかかわらずである。いつしか、ミチエに帰宅すると郵便受けをのぞく習慣がついてしまった。ミチエ自身は、はっきりと自覚していなかったが、手紙が待ちどうおしいという感情が芽生えていたようだ。
 そして毎回届く手紙は、ミチエの期待を裏切らなかった。毎回興味深く、そして疲れきったミチエの心とからだを癒してくれた。

『うちには風呂が無く、毎晩歩いて20歩程度の場所にある銭湯へ行く。昔は銭湯に行く際に、毎回部屋着から外着へ着替える母が不思議でならなかった。ただ銭湯に行くだけなのに、どうして良い着物に着替えるのかと母に尋ねたことがある。人の目に触れる時はちゃんとしなければならいと言うのが母の答えだったが、行く場所は公衆浴場だ。脱衣場であろうが風呂場であろうが人目は避けられない。まさか服を着たまま湯船に浸かるわけもあるまいに。だが、大学生になって解った。これが京都なのだ。』

 高尚な思想や哲学などではない。庶民の暮らしの中で起きる平凡なことを、青年の目を通じて語られる。この手紙は、自分の生まれ育った地域にはない文化や生活を持つ京都が垣間見られてとても面白かった。相変わらず返事を出さないミチエだが、とても『ストップ』の札を送る気にはなれない。しかしそれは同時に、この手紙が増えれば増えるほど書き手である青年への理解を深めるということを意味していた。
 届いた手紙が12通を越える頃になって、ふとミチエは手紙を送ってくれるこの青年がどんな青年なのだろうかという関心を持つようになった。興味の対象が、手紙の内容だけではなくその書き手にも湧くようになって来たのだ。
 考えてみれば月に3通程度の一方的な手紙とはいえ、男性である相手の考えや気持ちを読み聞きすると言うことは、自分にしてみれば同じ男性と毎月3回デートをしているようなものだ。当時の女子高生では考えられない経験だ。ミチエは、手紙の文字を改めて見直した。筆圧が低く流れるような文字。それでいて粗雑には書かれてはいない。感情のほとばしりを記すというよりは、静かにゆっくりと語るような温厚さを感じさせる。
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