凪の海
 この手紙を書いている青年に会ってみたい。そんな想いが、自然と湧いてきた。しかし、想いは湧くものの、相変わらずミチエは忙しさを理由に、返事も出さない。青年からの手紙は積み重なり、年が明け、冬が過ぎ、そしてミチエも3年生になった。

 泰滋は、自宅の2階の自室で目が覚めた。隣の住人の掃除している音に起こされたのだ。長屋づくりの住家は、薄い壁一枚を隔てて隣と繋がっている。生活の音は筒抜けだ。これも京都の住宅の特色なのだが、それだけに京都では、一層ひっそりとした生活を強いられる。
 泰滋は頭を振った。昨夜の学友たちとの痛飲がたたって、二日酔いの頭痛が彼を悩ませる。まだ寝ぼけまなこで布団から抜け出た。ボサボサの頭を掻きながら階下の居間へ降りていくと、母が台所の仕事をしながら『おはようさん。』と声を掛ける。
「おとうはんは…ああ、もう会社か…。」
「とっくやで…。ところで、ゆうべはいつ帰ってきはったん?」
「憶えてへん。友達と木屋町で飲んで、えらく遅くなってしもた。」
「顔洗ってきいや。朝ご飯の支度するさかいに。いや…もう朝やないから、昼ごはんやわ。」
「嫌みいわんといて。」
 泰滋が歯を磨き終えて、食卓に着くと母は濃いお茶と1通の手紙を泰滋の前に置いた。
「なに?」
「さっき届いた手紙や。泰滋ちゃん宛どすえ。」
「誰やろ?」
 手紙を受け取った泰滋が、手紙の表を確認する。女文字で自分の名前が書いてある。裏を返して見ると、際し出し人が『宇津木ミチエ』とあった。
「そのミチエさんってだれ?」
 母が心配そうにのぞきこむ。
「なんや、興味津々やな。」
「それはそうや。知らん人の手紙やし。」
 母親にしてみれば、年頃に成長した息子へ射した、見知らぬ女の影。ひとりっ子だけに気がもめて仕方が無い。
「安心しいや。大学の運動の仲間やし。」
 泰滋には解っていた。相手は宇津木ミチエだ。いよいよ『ストップ』札が送られてきたのだ。今回の訓練でどれほど自分に効果があったか知らないが、始めて半年近くたった。確かにもう終わり時かもしれない。
 泰滋は手紙の封を切り中身を確認した。意に反して『ストップ』札は無く、文字の書かれた便箋が一枚出てきた。

『拝啓 泰滋さまにおかれましては…。』
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