凪の海
 泰滋は、東海道本線の夜行特急でやってくる。1950年、今年の1月に改名された特急『つばめ』であれば、大阪—東京間をわずか9時間で結べるのだが、いくら同志社のボンボンの泰滋と言えども学生の身分では使いづらい。大阪を午後6時頃に出発、15時間をかけて東京駅へ。到着は、午前9時になる予定。そんな長旅に疲れているにもかかわらす、多摩川の親戚の家に行く前に、着いた当日にミチエに会いたいと言う。上京の目的は、親戚に会うことなのか、それとも自分に会うことなのか、ミチエには計り知れなかった。

 国鉄のダイヤの正確さは、戦前も戦後も世界でトップクラス。夜行特急は、時間通りに東京駅に着いたのだが、それでも泰滋は京都出発から到着まで1週間も電車に乗っていたような気分になっていた。彼は革のボストンバッグを手に取ると、飛ぶように待ち合わせ場所に向った。
 泰滋にとって上京の目的は久しぶりに親戚に会いに行くことである。それを理由として両親から旅費を受け取った。だから、ミチエに会うのはその『ついで』でしかない。そもそも、なぜ自分は突然ミチエに会いたいと告げたのだろうか…。
 1年近くも続けた文通相手への礼儀なら、申し訳程度の座布団が打ちつけてある木製の硬い椅子で一夜を明かし、ガチガチに凝った身体にムチを打って会う必要もない。東京滞在中にお互いの都合をあわせて会えば充分だ。なのに、東京駅へ着くや否や、ミチエが待つ場所に飛んで行こうとするのはなぜなのか。
 ミチエの手紙の内容、文字の形、筆圧。それらでも手紙を書いた相手の考えや性格をひと通り知ることが出来る。しかし、泰滋の気持ちの中に、もっとミチエのことを知りたいという願いが高まってきたことは、彼自身も薄々感じていた。
『では相手の何をもっと知りたいのか』
 このことについては、泰滋は明解な答えを持っていなかった。
< 68 / 185 >

この作品をシェア

pagetop