凪の海
「明日、塩山で1泊したら、また親戚の家に戻り…その次の日には京都に戻ります。」
「はい…」
「本当にお世話になりました。」
「いえ、十分にお構いもできず…。」
 ミチエも泰滋も、お互いに溢れてくる気持ちに手を焼いていた。ふたりとも、どうしたらいいか分からず、ただ黙って水平線を見つめていた。

 翌日の夜、ミチエは庭の軒先から家屋の屋根の上に浮かぶ月を眺めていた。月は満月なのに、彼女の胸は三日月のように欠けた空虚感に苛まれていた。言い尽くされた表現ではあるが、胸に大きな穴があいたようだ。こんな感じは、以前は感じたことがなかった。
 ミチエにしてみれば、長兄とともに泰滋を千葉駅に送っていき、彼の背中を見送った時からこの空虚感は続いている。泰滋が改札の奥に消えるのを見ながら、5日前に初めて会ったばかりの彼なのに、長年過ごした家族と離別するような気分になるのはなぜなのか、合点が行かなかった。
「おう、お前ここにいたのか?」
 見ると長兄が勝手口に立っていた。ミチエは別に返事もせずまた月に視線を戻した。
 仕方なく長兄は、サンダルをつっかけると、大きな体を揺すりながらのっそりとミチエの横に立った。
「お前、こんなところで何やってんだ?」
「別に…。」
 長兄は、しばらく月に照らされているミチエの横顔を見ていたが、くわえていたタバコに火をつける。
「お前に…月を眺めて感傷にひたるなんて乙女心があったなんて意外だな。」
「うるさいわね。何しようが私の勝手でしょ。」
「なんか…不機嫌そうだな。」
「私に用がないならさっさとあっち行ってよ。」
「用があるから、お前を探したんだろう。」
「だから、何?」
「実はな、部屋でこれを見つけてな…俺のじゃないから、どうも、泰滋くんが忘れていったらしい。」
 長兄の手にしているものを見ると、万年筆だった。柄が木製でだいぶ使い込まれている。これは、1年以上にもわたり彼女への手紙を書き綴った万年筆に違いないとミチエは直感した。これが彼の手元から失われてしまったら、自分あての手紙を書く事ができない。
「お前、彼の住所知ってるんだろう。送り返して…。」
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