凪の海
長兄の言葉が完結する前に、ミチエは彼の手から万年筆を奪っていた。これがなければ、もう二度と自分あての手紙は届かないのではないか。そんな恐怖をミチエは感じた。何が何でも彼が京都に帰ってしまう前に、これを返さなければ。たしか、彼の手紙の中に、多摩川の親戚の家の住所が書いてあったような気がする。彼が塩山から帰っているかどうかわからないが、彼が京都に帰る前にこの万年筆を届けよう。奇妙な強迫観念に駆られて、ミチエは、多摩川の家の住所を確認するために一目散に自分の部屋に駆け込んだ。
彼に会いたいのなら、そんな理由がなくとも素直に会いに行けばいい。しかし、この時代では、そんな素直な気持ちを表すことが不健全とされていた。だから、彼が忘れた万年筆が、ミチエの気持ちを救ったと言えないこともなかった。
泰滋は、母の実家の庭先で、山梨の山並みの上に浮かんでいる月を眺めていた。こうしてひとりになって、顔に山の冷気を当てていると、今自分の心が何を求めているのかがはっきりわかる。それと同時に、自分が求めていることを、妨げる可能性があるものが何かも、はっきりと分かるのだ。
彼にとって、父親と京都(ふるさと)は同義語だった。いずれも手ごわい相手だ。かつて自分の初恋もボロ切れのように捨てざるを得なかったのは、彼らに屈した自分の弱さではなかったか。あの頃の自分に比べ、今の自分に強さが増していると言えるのだろうか。
「泰滋ちゃん。部屋に戻らんかい。温かいほうとうをつくったで。山の夜は冷えるから、体に毒じゃ。」
彼に声をかけたのは、伯母である。
「はい。」
泰滋は素直に答えて居間に戻ると、進められるままにほうとうを頬張った。
「ところで、泰滋ちゃん。なんか元気ないようじゃが…。」
「そうですか?」
「悩みでもあるのかの?」
「嫌だなおばちゃん。悩みなんかありませんよ。」
「そうかい、それならええんじゃが。」
「ただ、急に考えなきゃならないことが増えちゃって…。」
「それは悩んでると同じじゃろ。」
「そうでしょうか…でもどうしようかと迷っているわけではないんですよ。自分のしたいことは、はっきりしているんです。ただ、それをいつ言い出すべきなのかがわからないんです。」
「それを迷ってるというんだがや。」
「はは、確かにそうですね。」
彼に会いたいのなら、そんな理由がなくとも素直に会いに行けばいい。しかし、この時代では、そんな素直な気持ちを表すことが不健全とされていた。だから、彼が忘れた万年筆が、ミチエの気持ちを救ったと言えないこともなかった。
泰滋は、母の実家の庭先で、山梨の山並みの上に浮かんでいる月を眺めていた。こうしてひとりになって、顔に山の冷気を当てていると、今自分の心が何を求めているのかがはっきりわかる。それと同時に、自分が求めていることを、妨げる可能性があるものが何かも、はっきりと分かるのだ。
彼にとって、父親と京都(ふるさと)は同義語だった。いずれも手ごわい相手だ。かつて自分の初恋もボロ切れのように捨てざるを得なかったのは、彼らに屈した自分の弱さではなかったか。あの頃の自分に比べ、今の自分に強さが増していると言えるのだろうか。
「泰滋ちゃん。部屋に戻らんかい。温かいほうとうをつくったで。山の夜は冷えるから、体に毒じゃ。」
彼に声をかけたのは、伯母である。
「はい。」
泰滋は素直に答えて居間に戻ると、進められるままにほうとうを頬張った。
「ところで、泰滋ちゃん。なんか元気ないようじゃが…。」
「そうですか?」
「悩みでもあるのかの?」
「嫌だなおばちゃん。悩みなんかありませんよ。」
「そうかい、それならええんじゃが。」
「ただ、急に考えなきゃならないことが増えちゃって…。」
「それは悩んでると同じじゃろ。」
「そうでしょうか…でもどうしようかと迷っているわけではないんですよ。自分のしたいことは、はっきりしているんです。ただ、それをいつ言い出すべきなのかがわからないんです。」
「それを迷ってるというんだがや。」
「はは、確かにそうですね。」