『私』だけを見て欲しい
「わ…分かりました…すぐに向かいます…」

恐れていた現実が本物になる。
これまで頼りきってた人が倒れる。
怖くて震えが止まらない。
母に何かあったら、わたしはもう、ここでは働けない…。

「何があったんだ…⁉︎ 」

肩を抱く人が聞く。
…やっと気持ちを伝え合って、二度目の恋に落ちたばかりなのに…

「お…お母さんが…倒れて…意識が、混濁してるって…」

今朝の元気な様子が思い出された。



『…今夜も遅いんだろーね… 』

困ったような顔して呟いてた。
その母に『なるべく早く帰るから…』と約束した。
なのに、私はその事を忘れて、ディスプレイにかまけてた。

忘れたい事柄から逃げるように時間を積み重ねて、やりたい事ばかりやってた。
こんな自分に下った天罰。
まるで、幸せになるのを許さないみたい…。


「…病院に行かないと…」

青い顔で囁く私の手を取ろうとする。
その手を、さっと引っ込めた。

「…ごめんなさい…さっき言ったことは…忘れて下さい…」

降りかかった不幸に、この人を巻き込みたくない。
冷たい現実を知るのは私だけでいい。
この人とはまだ、何も始まってないから……


「結衣…」

声をかけてくれる人に微笑む。

12年ぶりに名前で呼んでもらった。
それだけで、十分有難い。

「もう…いいですから。すみません…失礼します……」

昼間と同じく走って逃げ出す。
12年の記憶がカブる。
あの夜も、走って逃げ出した。

あの人の元から。
幸せだったはずの時間からーーー

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