ハリネズミに贈る歌
チケット
 そんなある夜。忘れもしない、十二月二十三日。祝日で学校が休みだった私は、初めて私服で彼の前に立っていた。
 「今日は私服なんだね」
 ギターをチュー二ングしていた彼が、突然放ったその言葉。それが、私へのものだとすぐには気づけなかった。
 「いつも、一番最初に来てくれるよね」
 ありがとう、と言いながらサングラスを取った彼の目が私を見つめていた。初めて見た彼の切れ長の目。イルミネーションの光が映りこんだ瞳はキラキラと輝いていた。そこでようやく、私に話しかけているのだ、と気づいた。
 「高校生、だよね?」
 私は戸惑いつつも、こくん、と頷いた。
 「この辺りの高校なの?」
 私は首を横に振った。
 顔がじわじわと熱くなっていくのを感じた。顔一面がしもやけにでもなりそうだった。彼が話しかけて来ているこの状況に、現実味がなかった。テレビの中の人が話しかけて来ているような感覚だった。
 「そっか、家が近くなんだ。それで、いつもここを通りがかるんだね」
 ──違う。初めて彼の歌を聞いた日、電車の中で気分が悪くなった私は、偶然、ここで降りたのだ。それから毎日、この駅で降りていたのは、彼の歌を聞きたかったから。
 でも、私は何も言えなかった。俯いたまま、黙り込んだ。
 心臓の音がどんどんどんどん速くなっていく。呼吸が荒くなっていく。落とした視線の先で、手がガタガタと震えていた。緊張とか、そんな生易しいものじゃない。それは、『発作』だった。
 言いたかった。『あなたの歌が好きだから、いつもここに来るんです』って。彼がいつも歌でそうしているように、私も言葉に乗せて気持ちを伝えたかった。

 でも、私には出来なかった。声を出そうとすると、頭の中で笑い声が響き出す。教室中に響き渡った同級生の笑い声が蘇ってくる。

 脳裏にまざまざと浮かび上がるのは、朝日が差し込む教室の光景。興味深げにこちらを見つめるクラスメートたちの顔がずらりと並ぶ。引っ越してきて初めて高校に通った日。ホームルームで自己紹介した私に、クラスの皆は笑顔で迎えてくれた。前の晩に、何度も何度もお風呂場で練習した自己紹介。気の利いたことは言えないまでも、当たり障りのない妥当なものにはなった。温かな歓迎ムードにも包まれ、緊張が安堵に変わった。でも、ほっと一息ついたのもつかの間、すぐに私は違和感を覚えた。歓迎のものと思われた皆の笑いから悪意が感じられたのだ。ヒソヒソと私のセリフを真似する声も聞こえてきて、すぐに気づいた。それが嘲笑だと。私の喋り方が、よっぽどツボにはまったらしかった。自分の『方言』というものを意識したのは、それが初めてだった。
 それからというもの、私が何か話そうとするたび、周りからクスクスと笑う声が聞こえてくるようになった。何度も何度も、そんなことが続いて、とうとう私の身体は声を出すことを拒否するようになった。息すらできなくなるほどに喉をしめて、『発作』は私から声を奪ってしまった。
 まさか、東京に来て、『言葉の壁』に直面するとは思ってもいなかった。

 「よかったら、どーぞ」
 歌っているときとはまた違う、優しそうな彼の声がすぐ近くでした。
 ハッと我に返った私の目の前に、一枚のチケットがあった。日付は次の日。クリスマスライブ、と書かれてあった。
 「俺、大学の軽音サークルにはいってるんだけどさ。そのサークルのクリスマスライブがあるんだ。俺もフライングバードっつーバンドで出る予定。一応、ボーカルなんだ。よかったら、来て」
 顔を上げると、彼がすぐそばに立っていた。ニッと自慢げに笑う顔は無邪気で、大学生とは思えなかった。ハリネズミみたいな髪がかわいく見えた。
 「あ、でも……ライブはアコギじゃないんだよね。結構、ロックでがんがん鳴らす感じなんだけど、大丈夫?」
 私はこくんと頷き、そうっとチケットを彼の手から取った。
 「暇だったらでいいからね。クリスマスだし」
 気遣うように、彼はそう言い添えた。
 嬉しいです、絶対行きます──そう言いたくても、声は出てこなかった。
 「こうして路上で弾くのも今日でやめにするつもりだし、もう人前でやるのはそのライブで最後だと思う」
 独り言のようにつぶやいた彼の言葉に、私は目を見開いて固まった。その様子で、充分、私の気持ちは伝わったのだろう、彼は照れたように頭をかいた。
 「シューカツっての? そろそろ始めねぇとだし、働き出したらギターやってる時間もなさそうだしさ。中途半端にするより、有終の美ってやつをかざったほうがいいんじゃないかな、て思って」
 そんなに年上だとは思わなかった。彼が働く姿なんて想像できなかった。私の中で幻のような存在だった彼が、徐々に生身の人間へと変わっていくようだった。
 ここに来れば、いつでも彼の歌が聞こえると思いこんでいた。彼はいつまでもここで歌ってくれるものだと思っていた。 
 自然と、チケットを握る手に力がこもる。彼の歌声を聞ける最後のチャンスだと思うと胸が張り裂けそうだった。
 その夜、私はずっとチケットを握りしめて彼の歌を聴いていた。言葉にできない気持ちが胸の中でパンクしそうなほどに膨らんでいた。
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