欲しがりなくちびる
ふと気付くと、朔はホームで電車を待っているところだった。

相馬のギャラリーからの帰り道、自分でもどうやってここまで歩いてきたのかはっきりとは覚えていない。交差点の喧騒も駅の改札口を通った記憶も全てが曖昧で、恐らく感覚だけで行きに通ってきた道を選んで帰ってきたのだろう。しっかり考えようと思っても、頭の中では相馬の話がぐるぐると回ってはただ通過していく一方で立ち止まってくれないから、一体なにから、どこから考えればいいのか分からなかった。

「……さん、朔さん!」

ふいに、ぽんと肩を叩かれて我に返る。最寄駅に降り立った朔は、交差点の赤信号を待っていた。呼ばれた方を振り返ると、傍らには今日も化粧っ気のない顔をした結子がにこりと笑い掛けている。

「偶然ですね。仕事帰りですか?」

少しハスキーがかった声は、彼女の雰囲気によく似合っている。

「ううん、今日はお休みだったんだ」

「お仕事、アパレルでしたっけ? そうなるとやっぱり平日休みになっちゃいますよね。朔さん、もし良かったらこれから一緒に食事に行きませんか?」

屈託ない笑顔を向けられて、朔の胸はなぜだかちくりと痛む。

「あー……。ごめんね? 今日はちょっと疲れてるから、今度でもいいかな?」

窺い気味に言えば、結子は胸の前で大袈裟なくらいに両手を振る。

「ごめんなさい! 私、全然気付かなくって。言われてみると、朔さん、あまり顔色良くないかも……」

心配そうに顔を覗き込んでくる結子に、大丈夫だからと笑ってみせる。そしてふと、浩輔の絵のことを思い出した。

「あ……。結子さん、浩輔の絵が大学に寄贈されてるって本当?」

「ああ! ‘見つめる少女’ですよね。確か今も大学に飾ってあると思いますよ」

「そっか。私も見てみたいんだけど、今度案内してくれないかな?」

「いいですよ! いつにしますか?」

結子は何の気なしに答えると鞄から手帳を取り出したから、朔もスケジュールの確認をして早番の日に待ち合わせをすることになった。


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