欲しがりなくちびる
「朔さん。初めて私と出会った日のことを覚えていますか? あの時、私は不躾なくらいにあなたを見ていたでしょう? その時にはまだこの絵を眼にしてはいなかったけれど、どこかで見たことがある顔だと思って仕方なかった。家に帰って、ギャラリーに運ばれてきたばかりの浩輔君の絵を観てその理由が分かりました。『たたずむ少女』にも、じゅうぶんあなたの面影があったから」

それまで絵画へ向けていた視線をちらりと私に移した相馬は、どこか儚げな、けれども優しい眼をしている。

「10年も、……いや、それ以上に、一人の女性を想い続ける男の気持ちはどれほどのものなのでしょうね。残念ながら私にはその経験がないから分かりませんが」

浩輔の絵を見て回ったあと、相馬は会場に顔を出しに戻ると朔と誘ってきたが、朔はそれを断ってもう少しだけ展示場で過ごすことにした。

美術館に来ているわけでもないのに静かな空間にはどこかあの厳かな空気が漂っていて、その雰囲気が朔には居心地が良い。

浩輔と顔を合わせないうちに帰ろうと通路に出ると、ちょうど相馬も会場から出てきたところで、一緒に食事をして帰ることにした。

帰宅した途端にどっと疲れが出てきて、朔はメイクも落とさずワンピース姿のままソファに横たわる。ここにきたとき最初に浩輔が言ったように、長時間休むには向いてないが転寝する分には丁度いい。

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