欲しがりなくちびる
暢の母親が待ち合わせ場所として提案したのは、昔ながらの喫茶店だった。店内にはボリュームを抑えたジャズが流れ、香ばしいコーヒーの香りが漂っている。一見というよりは、マスターが入れるコーヒーに魅了された常連客が静かに午後の時間を楽しむ、そういう店だった。

「この間はごめんなさいね。夜分にお電話なんかして。最近仕事が忙しくて、なかなか朔ちゃんに連絡できなくて。……聞いたわ、暢から。結婚式の準備が進んでないようだから問いただしたら、……あの子、浮気したんですってね……。

 あなたはどこも悪くなんてないのよ。可哀相に……。あんな馬鹿男、蹴っ飛ばして追い出してやればよかったのに、朔ちゃんが出ていく必要なんてどこにもないのよ。世界中どこ探してもいないわ、あんな出来損ない。母親として恥ずかしい」

彼女はそう言うと、本当にすまなそうに深々と頭を下げた。朔は慌てて首を振りながら、頭を上げてほしいと頼む。漸く顔を上げて朔と目を合わせた彼女は、悲しそうに眉尻を下げた。

「いいえ。暢さんは、ちゃんとした人です。きっと私にもどこか足りない部分があったんだと思います」

息子の不出来を謝罪する彼女に気を使ってそう言った訳ではない。実際、同棲するマンションの寝室で浮気に及ぶなど、朔が知っている彼ではありえないことだ。現実逃避なのか、未だ、目にした光景はもしかしたら夢だったのではないかと疑うこともあるくらい、暢は人格者だった。

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