欲しがりなくちびる
「少しは落ち付いたか?」

視線に気付いた浩輔が朔に釣られたようにカップを口元に運ぶ。

「これでもね、現場押えた時は、不思議なくらい何の感情も出てこなかったんだ。彼に対する怒りとか悲しみとか絶望とか、相手の女に対する嫌悪感とかそういうの、全くなくて。ていうか、しっかり見たはずなのに女の顔も忘れちゃってるしね。なのに、なんで涙なんか出てきたのか自分でも分かんない……」
  
言いながらまた悲しくなってきて、朔はカップの中身に視線を落とした。

「おまえ、昔っから男運悪かったもんな」

そんな朔に対して、浩輔はしれっと言葉にする。

「こういうときにそういうこと言う? 気の利いた文句の一つくらい言って、慰めてくれたっていいでしょ」

朔が一睨みして膨れ面をしてみせると、浩輔がはっ!と息を吐き出すみたいに笑う。

「ってかおまえさ。俺がそんなん言ったら、どうせまた泣くんだろ。女の涙は苦手なんだよ」

一瞥した浩輔は、最後まで言い終わらないうちに再び目線をテレビ画面へと戻した。

浩輔なのに、かっこつけちゃって。朔はマグカップを両手で包み込むようにして口元に運びながら彼の横顔を見つめる。
 
確かに、浩輔が言うことは正しい。憎まれ口を叩かれていたほうがまだ自分を保てる。年齢を重ねるにつれ、いつの間にか強い女になってしまった事には気付き始めていた。
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