【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
論功行賞
 関ヶ原の合戦後の論功行賞で秀
秋に備前と美作の五十一万石が与
えられた。
 前の所領、筑前、筑後、肥後の
三十万石と比べれば大幅な加増と
なったが、備前と美作は以前の領
主、宇喜多秀家が朝鮮出兵に駆り
出されて政務が滞り疲弊してい
た。
 領民は働く気をなくし田畑に草
が茂り道はぬかるみ、岡山城でさ
え廃城のようになっていた。
 家康はあらかじめ備前と美作が
疲弊していることを知っていて、
それを餌に秀秋が東軍に味方すれ
ば与えると約束したのだ。仮に秀
秋が味方し勝利しても備前と美作
なら惜しくはないと考えていた。
そしていずれ秀秋が疲弊した領地
をもてあまし、さらに悪化させれ
ば、それを理由に処罰し領地を取
り上げるつもりでいた。
(小僧が何も知らんで……。お前
のものはすべてわしの手の中
じゃ)
 ところが備前に移った秀秋は名
を秀詮(ひであき)と改め、まず
荒廃していた岡山城を改築し以前
の二倍の外堀をわずか二十日間で
完成させた。そして検地の実施、
寺社の復興、道の改修、農地の整
備などをおこない、急速に近代化
させていった。これらは秀吉の政
策を手本にしていた。
 秀詮は家康の全国支配の中で秀
吉の政治を継承し独立自治という
桃源郷の実現を目指していたの
だ。
 こうした秀詮の動きは家康の耳
に逐一入っていた。
 関ヶ原の合戦後、秀詮らの城攻
めで半壊した伏見城は改築され、
家康が移っていた。そこで報告を
聞いた家康は驚きをとおりこして
恐怖を感じた。
 秀詮の戦いでの能力は身をもっ
て思い知らされたが、まさか所領
を統治する能力まで優れていると
は思ってもみなかった。そして、
真っ先に岡山城に手をつけ防備を
固めたことは、自分や跡を継ぐ秀
忠が全国支配するうえで最大の障
害になることは容易に想像でき
た。
 秀詮は豊臣家と血縁関係者でも
あり、将来、豊臣秀頼と手を組
み、豊臣政権再興に担ぎ出される
かもしれない。すぐにでも討伐し
たいがしかし、秀詮は戦功をあげ
ているので、おおっぴらに殺して
は諸大名の忠節心が得られなくな
る。そもそも秀詮と戦をすれば多
大の損害は免れない。
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