【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
辞世の句
 天正十九年(一五九一年)
 秀長の病死は正月が過ぎて間も
なくのことだった。秀長は秀吉の
参謀として多大な貢献をした。そ
して唯一、秀吉に忠告できる存在
だった。もし生きていれば利休の
助命をしたかもしれない。
 秀吉は秀長の喪があけると利休
を京に呼び戻した。
 利休が聚楽第に入ると待機して
いた軍勢が利休邸を取り囲んだ。
このことを聞きつけた古田織部、
細川忠興ら利休の弟子たちが前田
利家などに働きかけて助命を嘆願
した。しかし、秀吉には聞き入れ
られず、利休に自刃が命じられ
た。
 利休はすでに悟っていたのか取
り乱す様子もなく一生を終えた。
 この時、秀吉は利休の遺言とし
て書かれた歌を見ていた。

 利休めはとかく果報のものぞか

  菅丞相になるとおもへば

 菅丞相とは菅原道真のことで、
朝廷に仕える学者の身から右大臣
にまでなったが、そのことで藤原
氏にねたまれて九州に左遷され大
宰府の長官にされた。
「利休め、町人の分際で己を菅丞
相になぞらえるか」
 秀吉が苦笑いを浮かべていると
その歌と共に利休が前日に書いた
辞世の句があった。

 人生七十 力囲希咄
 吾這寶剣 祖佛共殺
 堤る我得具足の一太刀
 今此時ぞ天に抛

 人生七十(年) りきいきとつ
 わがこの寶(宝)剣
 租佛(仏)共に殺す
 ひっさぐるわが得具足の一太刀
 今この時ぞ天になげうつ

 秀吉の脳裏に信長が好んで舞っ
た謡曲「敦盛」の一節がよぎっ
た。
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