【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
慶長の役
 慶長二年(一五九七年)
 二月二十一日には朝鮮へ出兵す
る諸大名の編成が決まった。
 一番隊、加藤清正
 二番隊、小西行長、宗義智、
     松浦鎮信
 三番隊、黒田長政、島津義久、
     毛利吉成
 四番隊、鍋島直茂、鍋島勝茂
 五番隊、島津義弘
 六番隊、長宗我部元親、
     藤堂高虎、池田秀氏、
     来島通総、中川秀成、
     菅達長
 七番隊、蜂須賀家政、
     生駒一正、脇坂安冶
 八番隊、毛利秀元、
     宇喜多秀家

 釜山浦城、小早川秀秋
 安骨浦城、立花宗茂
 加徳城、 高橋直次
 竹島城、 小早川秀包
 西生浦城、浅野幸長

 軍目付、太田一吉、毛利重政、
     竹中重利、垣見一直、
     毛利高政、早川長政、
     熊谷直盛
 そして総大将は小早川秀秋と告
げられた。
 文禄の朝鮮出兵からまだ立ち
直っていない諸大名は落胆の色が
隠せなかった。それをよそに秀吉
や徳川家康らは京、醍醐寺三宝院
へ花見に出かけて楽しんだ。
 家康は文禄の朝鮮出兵を免れて
いる間に所領の開発が進み百八十
六万石から二百五十六万石の大大
名になっていた。しかし家康は東
方の統治を任されていることを理
由に今度の朝鮮出兵にも加わるこ
とはなく、秀吉の機嫌をとること
に専念した。その秀吉の言動は日
増しに異常になっていった。
 ある日などは宇喜田秀家の正
室、南の御方が狐の祟りによって
病気になったと言いだし、稲荷大
明神へ日本中の狐を退治すると通
告したのだ。
 そんな秀吉に従うことしかでき
ないほど政治機能が麻痺した中で
の朝鮮出兵だった。
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