【長編】戦(イクサ)小早川秀秋篇
リーフデ号
 近江、佐和山城に蟄居させられ
た石田三成は家康の寿命を計算し
ていた。
(家康は今年、五十八歳。仮に七
十歳まで生きたとしてもあと十二
年。それまでに家康の子の誰かが
跡を継ぐはず。家康の子には才覚
のある者が一人もいないから、い
ずれ世は乱れるだろう。その時、
秀頼様を押し立て諸大名を説得す
れば、また豊臣の世を再興でき
る。このまま隠居して世捨て人に
なりすまし家康に秀頼様を殺す口
実を与えないように手立てして力
を蓄えるのもよかろう)
 三成は十二年後には五十二歳、
秀頼は十九歳になる。跡を託すに
はいい頃合いと考えていた。しか
しその計画を覆す人物が現れた。

 慶長五年(一六〇〇年)三月十
六日
 豊後、佐志生の黒島沖にオラン
ダから出航した東インド貿易の
船、リーフデ号が漂着した。
 領民の知らせを聞いた臼杵城主
で秀秋が朝鮮に出兵した時の軍目
付だった太田一吉が向かい、生存
者が二十四名いることを確認し
た。その中にはイギリス人の航海
士、ウイリアム・アダムスもい
た。
 太田は家康に知らせるとその
後、肥前、長崎の奉行をしていた
寺沢広高が対応を引き継ぐことに
なった。
 寺沢はポルトガル人のイエズス
会宣教師を通訳としてアダムスら
を尋問した。
 この一件は筑後の柳川に赴任し
ていた秀秋の家臣、松野主馬によ
り秀秋にも伝えられた。
 松野の話によると漂着した船に
は、大型の青銅製、大砲十九門、
鉄砲五百挺、砲弾五千発、鎖弾三
百発、火箭三百五十本、矢尻三百
五十五個、鎖帷子、甲冑などが多
数積んであったということだっ
た。
 秀秋は稲葉正成、大炊助長氏ら
と相談した結果、毛利一族の長で
あり西方の統治者でもある毛利輝
元に知らせることにした。
 使者として小早川隆景の家臣
だった岩見重太郎を向かわせた。
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