その唇に魔法をかけて、
 そんなことは寝耳に水だ。けれど、彩乃が言っていることが本当なのであれば、今朝から自分を見る仲居たちの冷めた視線と陰口に納得がいった。

(そんな噂がたってたなんて……どうして?)

「私が響兄ちゃんのことどう思ってるか知ってて近づいてるの?」

「ち、ちが――」

「友達だって思ってたのに……最低!」

 呼び止めるまもなく彩乃は美貴の横をすり抜けて走って行ってしまった。友情が崩れるパリンという音が聞こえて、美貴は呆然となった。

「どうかしましたか?」

「あ……」

 その時、一部始終を見ていた藤堂が廊下の影から姿を現した。おそらく通りがかったら予期せぬ応酬が聞こえて留まっていたのだろう。

「まったく、彩乃には困りましたね……」

「藤堂さん、全部聞いてたんですか? 私、知らない間に彩乃ちゃんを怒らせてしまったみたいで……」

 今から追いかけて否定しても、彩乃はきっと話を聞いてくれるとは思えなかった。俯いてしゅんと肩を落としていると、藤堂が口を開いた。

「あなたがグランドシャルムの人間だということは私から彼女へ口止めしておきます」

 藤堂の慰めるような柔らかい声音が胸にしみて、今にも涙が溢れそうになってしまう。

「けど、どうして彩乃にバレたんでしょうね」

 美貴がグランドシャルムの令嬢だということを知っているのは限られている。不思議そうに首を傾げている藤堂に、美貴は何も言えなかった。

 かえでが口を滑らせたことは自分の口から言わない方がいい。これ以上、事を大きくしたくもない。美貴はそう考えて口を噤んだ。それを察した藤堂はそれ以上追求せず、すっとポケットからハンカチを取り出した。
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