その唇に魔法をかけて、
 その日の夕方。

 忙しない厨房でガシャンという陶器が床に落ちて割れる派手な音が鳴り響く。

「す、すみません! 痛っ」

「あ~あ~、なにやってんの、大丈夫? あっ! 素手で拾っちゃだめだって!」

 マルタニ商事の一行が予定より少し遅れて黎明館に到着した。得意先とのこともあり、花城も直々に玄関に挨拶に出向いていた。そして、かえでにすぐに自分の担当の客人を部屋に案内し、そのあとに茶菓子を出すように言われたのだが、思わぬ失敗をしてしまった。

(仕事に集中してない証拠だな……こんなことじゃだめなのに)

 彩乃とのことが先程から頭をはなれない。仕事に集中しようとしても、ふとした時に彩乃から言われた言葉を思い出してはため息ばかりついていた。

「大丈夫かい?」

「はい、すみません」

 料理長の木村が心配そうにしながら、さっさと箒で割れた湯呑を片付ける。

「怪我してない?」

「はい、あ、あの! 私がやりますから」

「いいって、早くお客さんとこにこれ持って行きな」

 いつの間に淹れ直したのか、温かい茶の入った湯呑と茶菓子の載った盆を木村に差し出される。木村は黎明館のある近くの村から料理長として単身で出稼ぎに来ている恰幅のいい人で、父親を思い起こさせる雰囲気に親しみを感じていた。だからこそ、迷惑をかけてしまったことが居た堪れなかった。

 今度こそは失敗しない、とすっすと廊下を歩いていると、先ほど湯呑の破片で切ったと思われる鋭い痛みが、絆創膏の下でじくじくと疼いている。

(ほんと、ドジだよね……しっかりしなきゃ)

 すると、目的の部屋へ急いでいる途中、思わぬところで彩乃と出くわした。
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