その唇に魔法をかけて、
 美貴が部屋に入っていった気配を感じ、彩乃はちらっと肩越しに振り向いた。

(あの部屋って、漆畑部長の部屋じゃ……)

「彩乃」

 不意に名前を呼ばれて彩乃が振り向くと、別の客間から出てきた陽子がにこにこ顔で近づいて来た。

「あれ? 陽子さん?」

 マルタニ商事の担当部屋割りを確認した時、彩乃は陽子が漆畑の担当だったのを確認している。それなのになぜ彼女がここにいて、美貴が漆畑の部屋に入って行ったのか、彩乃は困惑した。

「聞いてよ~今年もまた漆畑専務の部屋担当でさぁ、新人の子に代わってってだめもとでお願いしたら、案外すんなりオーケーしてくれちゃったから助かったわ」

「え……? ちょ……勝手にそんなこと――」

「大丈夫だって、あの子にはかえでさんに言っとく~って言ったけど、案外かえでさんも気づいてないみたいだし、別に言わなくても平気かなって」

 あっけらかんとそう言うと、にっこりと笑って陽子は仕事に戻っていった。
(美貴……)

 鳥肌のようなざわりとした嫌な予感がする。その時、陽子と入れ替わるようにして廊下の向こうからかえでに声をかけられた。

「こんなところにいた、彩乃、探したわよ」

「かえでさん……」

 彩乃は自分勝手な陽子の行動に憤りを感じていた。すぐさまかえでに報告しなければと意気込んだが、その一方で美貴に感じていた嫉妬という黒い手に、喉まででかかった言葉が制される。

「どうかした? そんな難しい顔しちゃって、そろそろお夕食の支度の準備に入るから厨房に来てちょうだい」

「あの――」

 彩乃の中でいままでにないような葛藤が交差し始めた。このまま正直に陽子のことをかえでにいうか、それとも――。

「……何でもないです」


 美貴に裏切られた。美貴がどうなっても自分には関係ない。そんな悪魔のような囁きが結局、彩乃の心を呑み込んでしまった。そして彩乃はなにも言えず、かえでとともに厨房へ向かった――。
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