まどわせないで
耳が妊娠してしまいそうです
 ああ。平和だ。

 キッチンに立ち、あと少しで出来上がる肉じゃがの鍋を前に、小麦は色々と思い返していた。

 となりの部屋の盗み聞きをして、半ば脅され、強引にラブホテルに連れて行かれたあの日から、約半月。
 あの日以来、陸に会うこともなく、いつも通りの日常を過ごしていた。
 朝起きて仕事に行って、帰って、ご飯作って、食べて寝る。
 特にこれといった変化のない生活を送っていると、ラブホテルに行ったあの日の事がうそみたいだ。如月さんは相変わらず生活感がなく、姿も見ないので、夢の中の出来事だったのかな、と錯覚してしまう。だからといって、もう、如月さんのことに顔を突っ込むのはこりごり。
 また脅されたくないし、女として扱ってくれないひとに、変にドキドキするのも嫌だった。
 あんな、頭が溶けちゃいそうなキスの音なんか聞かせてどういうつもりなんだろう?
 わたしに興味なんかないくせに。
「俺が欲しいのか?」なんて迫ったのだって、嫌がらせに違いない。
 正直、如月さんは性格に難があるけど、魅力的なひとだというのは認める。
 長身で、スタイルもよくて、ハンサム。声はいつまでも聞いていたいと思わせる、蜂蜜のように甘くて、耳から心にじんわり響く。
 たらしみたいだし、今までさんざん女のひとを悲しませてきたに違いない。
 そんなひとにドキドキするとか、自分が嫌になる。でも、あのひとには抵抗できない力があるのも確か。
 まぁ? 女として見てもらえない段階で、親しい仲になるとは思えないけれど。
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