ヒーローに恋をして
 玄関の扉が開くと同時に、手首を強く引かれる。前につんのめって、鼻先をコウの脇あたりにぶつける。あ、と思ったときは扉が閉まる音を背中で聞いていた。

 ふたりきりだ。

 さっきからそうなのだけど、いつもつけているコウの香水の匂いが薄く漂うこの部屋にいると、二人だけでいることを強く意識してしまう。広い部屋の四隅が収縮して、視野がぐっと絞られたような気がする。

「さっきの、なに」

 甘さのない低い声が、すぐ近くからする。気がつけば扉脇の靴箱に両手をゆるりと置いたコウが、腕の中に閉じ込めるような態勢で桃子を見下ろしていた。

 かぁ、と既に赤くなってる頬に血が上る。視線を避けるように目をそらした。キッチンカウンターに並ぶガラスコップと四つ折りになってるなにかの広告。ダイニングチェアに少しだらしなく掛けられたパーカー。シリアルバーの包み紙。
 あちこちにコウの気配が立ち込めている。前はそんなもの感じなかったのに。変わってしまった自分の変化を突きつけられてるようで、困る。

「なにって、なにが」
 問い詰められて不貞腐れた子どものような声。ベージュのパンプスに視線を落とす。
「芝居、さっきの」
 桃子の両脇に置かれた腕が動いて、少し力が加えられた。コウが纏う空気の圧力も増した気がして、ごくりと息を飲む。

「しばい」
 おうむ返しに応える。取り調べを受ける容疑者のようだ。睫毛の先まで緊張している。

 そのとき、コウが脇に置いていた両手を離して桃子の頬を包んだ。さっき熱いと思っていた手は、意外なほど冷たかった。

「とうこ」

 はじめて名前で呼ばれた。呼ばれ慣れている名前なのに、心がびくりと反応するのはなぜだろう。

「好きだ」

 大切ななにかをそっと渡すように、コウが目を細めて言う。

「ずっと、桃子が好きなんだ」

「……こうちゃん」
 驚いたら、昔の呼び方が口を突いて出てきた。一瞬驚いたように目を丸くしたコウは、ふっと笑った。甘く柔らかな、男の笑みだった。
「桃子も、俺が好きでしょ」

 ちがう、とは言えなかった。言いたいとも、思わなかった。

「好きだよ」

 言葉が心の端にじわりと溶けた。さっきと同じように腕を伸ばしてコウを引き寄せる。ふわりと香る、コウの匂いに包まれて深く息をした。

「とうこ」

 呼ぶ声に、顔を上げる。間近で見ても、整った顔だ。昔はかわいかった。今はかっこよくて、この胸を震わせる。眉の下を流れる前髪。長い睫毛に縁取られたとろりと黒色の目。

 そっとコウの頬に触れた。やわらかくて、うれしかった。
 薄く笑んだ唇を、掬い取るようにコウが唇を重ねた。
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