いきなりプロポーズ!?
 お気に入りのニットワンピースに着替えて部屋を出た。カギを持つ手が震える。異様に緊張した。このホテル内でひとりで移動するのは初めてだ。階下へ向かうボタンを押す手も震える。エレベーターを待つのもひとり、それに乗るのもひとり。子猫が腹をすかせて段ボールを出る心境もこんな感じだろう。ここを出るのは勇気がいるけど、出なければごはんにありつけない。頑張るんだ自分!と心の中で呟いて奮い立たせていたであろう。

 エレベーターの扉が開く。ロビー階だ。当然ながら降りるのもひとり、いつもなら達哉が図々しくも先に降りるから、やけに視界も広い。捨て猫も感じただろう。外の世界は広いんだって。


「あら、愛弓さん、ひとりなの?」


 そう声を掛けてきたのは鈴木夫人だった。何故か夫人もひとりだった。


「は、はい。た、達哉は寝過して今さっき起きたところで。も、も、モーニングが終了しちゃうからお前だけ先に行って来いって、お、追い出されて」


 広い世界でひとりで嘘をつくのは結構勇気がいるものである。猫も同じ心境だったろう。


「あらあら」
「鈴木さんもひとりですか? ご主人は」
「ほら、あそこ」


 夫人は目線でロビーのソファを指した。知らない年配客とカメラを片手に話しこんでいる。身を乗り出して目をキラキラを輝かせて、時折背をそらせて笑っている。


「楽しそうでしょう?」
「はい」
「主人ね、ずっと塞ぎこんでたのよ。ほら、定年退職して毎日家にいるようになって。よくいるでしょ、仕事が生きがいってひと」



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