彼に惚れてはいけません
「来てくれて、ありがとう。会ったばかりの得体の知らない俺の誘いなのに」
「本当にそうですね。お店の名前もセーヌだと思ってたら、センスでした。騙されましたよぉ」
「俺の字、そんなに汚かった?ごめんごめん。でも、この店にぜひ由衣を連れて来たかったんだよ」
そう言いながら、メニューを広げる吉野さんから目が離せないでいた。
昼に会った時よりも少しひげが濃くなっていた。
くせ毛がちょっと乱れてるのは、さっきお手拭で髪まで拭いたから。
「私の名前、もう覚えてくれたんですか?」
「あ、ごめん。佐々木さんって呼んだ方がいい?」
フルネームを記憶してくれていることに感激しつつ、由衣と呼んで欲しいと言えない私。
「じゃあ、佐々木さん。俺ね、この店に救ってもらったんだ。この雰囲気、君も好きじゃないかなって思った」
佐々木さん、という響きにぐぐっとテンションが下がる。
私は水を飲み、
「はい。このお店、とても好きです。マスターと奥さんもとても優しくて、癒されます」
と答えた。
「でも、やっぱり由衣って呼びたい。俺、娘がいるから若い女の子見ると娘とかぶるんだよね。だから、由衣って名前で呼ぶのが落ち着く」
これは喜んでいいのか、悲しむべきなのか。
吉野さんにとって、私は娘的存在ということなのだ。
かわいい娘のような由衣って意味。
私を誘ってくれたのも、そういう気持ちからなんだろう。