御曹司さまの言いなりなんてっ!
それだけ言い残し、私はまた歩き出した。
部長はなにも言わず、身動きもしなかった。
背中に視線を感じたけれど、引き止められることもなく、私は玄関に向かって進んでいく。
するべきことは全て果たした。
だからもう、ここに居る理由はない。
それを良く理解している私は、格子戸を開けて外へ出た。
絵空事のような料亭から一歩踏み出せば、そこには見慣れた日常の世界が待っている。
手で目の上にヒサシをつくって眩しい夏空を見上げながら、車のエンジン音や人々のざわめきを耳にした。
さあ、帰ろう。
私は古民家へ、ひとりタクシーに乗って帰った。
そして黙々と荷物をまとめる。
ここはおばあちゃんや先祖が住んでいた場所らしいけれど、私にとっては見知らぬ空間でしかない。
もうずっと昔に、終わってしまったことだもの。
自分がここにいることを、ほんの僅かばかり不思議に思うだけ。
荷物をまとめ終えた私はすぐ古民家を出て、玄関にキッチリとカギをかけた。
『家に着いたら、真っ先に退職願いを書こう』
淡々とそう考えながら、私は黙って三ツ杉村を後にした。