御曹司さまの言いなりなんてっ!
それがキミだよ……。タキ。
知っているかい? 外国にはね、アダムとイヴという伝説があるんだよ。
神が最初につくった、この世で最初の男女だ。
あの時のタキはまるで神話のイヴのようだった。
恐ろしいほど孤独な世界にひとりぼっちで取り残された私の前に現れ、林檎を差し出してくれた。
そして私に新たな世界を与えてくれたんだ。
キミはね、私にとってのイヴなんだよ。
「あぁ、私もすっかり忘れていた。あの日の出会いを」
会長は病室の天井を見上げながら大きく息を吸い、そう呟いた。
見開かれたその目は遥か遠い遠い過去を彷徨い、彼以外には見えないものを見つめている。
「なぜだろう。あんなに大切な思い出だったのに。どうして私は今まで忘れてしまっていたんだろう?」
不思議そうな会長の目に涙が盛りあがり、つうっと横へ零れて落ちた。
自分が涙を流していることにも気付いていない様子で、幾筋も、幾筋も涙を流す。
目尻に刻まれた何本もの深い皺が洗われたように光って、枕をしっとり濡らした。
「タキ、タキ、私はとても幸せだよ」
滂沱の涙を落とし、会長は天井に向かって震える手を差し伸べる。
「キミは? キミは今……幸せかい?」
その問いに答える人は、もう、いない。
空を掻くように虚しく彷徨う細い指先を、私は自分の両手でそっと包み込んだ。
そしてゆっくりと語りかける。
「タキという字は、多くの喜びと書きます。その名の通り……」
私の目に、じわりと涙が滲んだ。
「その名の通り、喜びに満ちた人生でした」