妖しく溺れ、愛を乞え
 お札を無理矢理押しつけて、深雪はホテルを出て行ってしまった。お金……! 人様のお金でどうのというよりも、これ偽札なんじゃないのかしらという心配の方が先に立ってしまった。大丈夫だよね……?

 とにかく、早くチェックアウトして、追いかけなくちゃ。慌ただしいなぁ、もう。
 フロントスタッフがお金を計算するのを緊張しながら見て、そしてお釣りを出される。

 それを鷲掴みにして出口へ急いだ。

 ホテルを出ると、1台のタクシーのそばに、深雪が立っていた。

「すみません。お金、返しますから、あの」

 いくらなんでも、ここの支払いまでお世話になるわけにはいかない。多くの貯金があるわけじゃないけれど、たった数日のホテル代くらいは払える。

「いいから、早く乗って」

 あたしの話はスルーされ、タクシーに押し込まれる。

「あの……」

「話は帰ってからでも良いだろ。すみません、大手町の方へ……」

 タクシーは薄暗い街を走る。隣に居る深雪の沈黙が怖かった。なにを怒っているのだろう。車内ではラジオが流れていた。地元プロ野球チームの試合だった。

 ああもう。なんだっていうの。お腹が空いているのかしら。空腹だと不機嫌になるとか? 子供か? 子供なのか? 歳は200歳過ぎていても、中身は子供なのかもしれない。なんなの、あたしなんか悪いことしたかしら……。


 ほどなくして、タクシーは高いマンションの前に止まった。

「こ、ここ……?」

「そうだ。ほら、行くぞ。荷物が多いんだから」

 ここに住んでいるわけ……? 会社で用意して貰ったんだろうか。だって、先週までうちの会社に存在していない人物なのに。

 ゆっくり考える暇も質問している暇も無く、あたし達は多くの荷物を持って、エレベーターに乗った。

 10階。停止したエレベーターから、またヨイショヨイショと荷物を出す。ああ、可能ならばこれ全部投げ捨てたい。断捨離する暇も無かったから。

「ご、ごめん……もうちょっと荷物整理して片付けるから……」


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