妖しく溺れ、愛を乞え
◇
カーテンを開けた先に広がったのは、どんよりした空だった。傘が必要かな。あたしは玄関へ行き、積み上げられた荷物から折りたたみ傘を探そうとして、やめた。
ドアに、ビニール傘が立てかけてあったからだ。
「……ばか」
朝、目覚めると、部屋には誰も居なかった。深雪は先に出たらしい。こんなに早く会社に行くわけが無いんだけれど。なにか打ち合わせが入ったのか、それとも営業と出かけるのか。
いずれにしろ、出勤すれば分かること。
テーブルには合い鍵、お金。メモには丁寧な文字で、食費を預けるので、冷蔵庫になにか買って入れて欲しいこと、夕飯を一緒に食べること。そんなことが書いてあった。
「字、書けるんだなぁ」
変なところで関心している。読み書きもできなければ人間界で働き暮らして行けないだろうから。
山から出てきて、人間に紛れて暮らしている妖怪。理解の枠を越えた存在。自分とは違った存在。
あたしに向けられた感情は、真っ直ぐで怖い。
ふたりになれば、体を求められる。
ふっとため息をついた。ここに長い間居てはいけないのだろう。優しさに甘えてしまってはいけない。早く、部屋を見つけないといけない。
そろそろ時間だ。夕食は一緒にと書いてあるメモを横目に、合い鍵を取って玄関へと向かった。
出勤すると、みんなに挨拶をし、デスクに着く。
ホワイトボードに追加された深雪の名前と支店長の横には「直帰」という文字があった。
1日出かけて帰って来ないのか。支店長も居ないことだし、じゃあ今日は静かだな。
余計なことを考えないで済む。