恋愛渋滞 〜踏み出せないオトナたち〜


「……沢野」


桐人は椅子から立ち上がり、ベッドに座る夏耶の目の高さに屈むと、布団の上に出ている彼女の手を軽く握った。


「先生?」


夏耶の問いかけには答えず、桐人は空いている方の手を、黙って彼女の頬に添える。

ぴくりと震えた夏耶は、瞳に戸惑いの色を浮かべて彼を見る。

長い睫毛をゆっくり伏せた桐人は、徐々に彼女に顔を近づけて、二人の距離はどんどん狭くなり――。


「ダメ……っ……です」


唇と唇が触れる寸前、パッと顔を逸らした夏耶がそう言い、桐人は身体を離した。


「ごめん……」

「いえ……あの、嫌だったわけじゃなくて……」


椅子に座り直して夏耶と目を合わせようとしない桐人に、彼女は言った。


「私……先生のこと、たぶん好きです」


それは、さっき気づいたばかりの、けれど確かな気持ちだった。

以前から彼に抱いていた尊敬や憧れとは違う、切なさの混じった愛しい気持ち。

桐人が思わず夏耶のほうを向くと、彼女は告白のあとには似つかわしくない、寂しげな笑顔を浮かべていた。

だから、彼女がこれから言うことは、きっと自分にとってよくないことなのだろうと桐人にはわかった。


「でも……今は、こういう、女としての感情は、捨てなきゃいけないと思うんです」


――ほら、やっぱり。

桐人は少しだけ期待した自分が馬鹿みたいだと思った。


「……子供のために?」


静かに尋ねると、夏耶はこくりと頷いた。



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