優しい歌 ※.。第二楽章 不定期亀更新
13.綾音家で過ごす時間 -穂乃香-
8月下旬に家出をした私は、
一綺さんと紫おじさま、姫龍おばさまのご好意で、
パパの許可を貰って彩音邸で生活をしていた。
私自身のピアノの音がわからなくなった。
だけど、まだ……ピアノの音色に惹かれる私自身。
彩音のお家には、一綺さんのピアノの音色が響いていた。
二学期が始まり、私は彩音の家からフローシア学院へと通学する日々が始まった。
「ごきげんよう」
紫おじさまが送り届けてくれた学院の門前で、
静かに車を降りると、穂積は私に近づいてくる。
「有難うございます」
「頑張っておいで、穂乃香ちゃん」
深々とお辞儀をしてドアを閉めると、
紫おじさまはゆっくりと車を走らせ始めた。
「ごきげんよう、穂積」
「今日から二学期だねー。部活がなくなって、なんだか刺激が少なくて寂しいわ。
今日の放課後、部活に顔を出してみようかしら?」
「部活、いいねー。
でもコンクールはいいの?
夏休みから練習に明け暮れてたんじゃなくて?」
そういう穂積に、私は首を横に振った。
「なんていうか……スランプ中。
夏休みはピアノに触れずじまいよ。
触ったには触ったのよ。
でも私自身の音がわからなくなって……」
「あぁ、それで羽村君とも喧嘩した?」
「えっ?なんで……」
「穂乃香、わかりやすいからさ。表情。
それでさっきの方は?
あれって、悧羅学院の理事長でしょう?」
「うん。パパの親友。
家出娘の私を今は面倒見てくれての」
そういうと、穂積は「つくづく、穂乃香の近くには有名人が多いわねー」っと
くすくすと笑った。
見る人が見たらそうなのかも知れないけど、
私からしてみたら、昔からそこにあったフィールドで、
それが普通だったから実感がない。
ピアニストの父を持つ娘。
それはそれで……大変なんだけどな……。
午前中だけの始業式が終わり、
穂積と一緒にテニス部へと顔を出す。
後輩たちと一時間くらい汗を流して、
穂積より先に学校を後にした。
校門を出て駅に向かう途中、
ゆっくりと近づいてくる車。
隣に停車した車の助手席の窓がゆっくりと降りると、
一綺さんが姿を見せた。
「穂乃香ちゃん、今学校帰り?」
「はいっ。
少しテニス部で後輩たちと汗を流して来たので」
「よかったら少しドライブでもどう?
私も、一仕事終えて気分転換したいと思ってたんだ」
そういってくれた一綺さんの車の後部座席を開けて乗り込もうとしたら、
「助手席でいいよ」っと招き入れてくれた。
助手席に座って、シートベルトをかけると車は走り出す。
走り出す車内、緊張が広がっていた。
車内には、一綺さんのイメージとはかけ離れた激しいリズム隊の音楽が響いていた。
「一綺さん、こんな曲も聴くんですね」
「あぁ、この子たちは悧羅に縁がある皆だからね」
そう言うと一綺さんは嬉しそうに話した。
「悧羅って、今、咲夜が通いだした学校ですよね。
パパの母校」
「そうだよ。悧羅は私の一族が経営している学び舎でもあるしね」
「……凄いなー……。
パパもそうだけど、私の周りって凄い人ばっかりいて、
小さいときからずっと息苦しさを抱えながら過ごしてたから。
幼い時から顔を出した劣等感って、なかなか消えないよね。
私は私だって見てほしくて、あがいていても、
周囲は私じゃなくて、パパの娘としか見てないとか」
そういってボソっと呟いた私の声は、
うやむやにされず、一綺さんによって拾い上げられた。
「穂乃香ちゃん、君だけじゃないよ。
私も同じ。私のあの有名な父を持っているからね。
父の時代、ずっと支えてくれた生徒総会に革命をもたらせた
異端児の息子と娘だから。
周囲から注がれる期待の重圧は私だって経験積みだよ。
そしてそれは私だけじゃなくて、今私が関わってる悧羅で出会った友たちも
それぞれに重圧と葛藤してる。
穂乃香ちゃんの心の持ち方ひとつで、
その重圧は、プレッシャーとして襲い掛かるか、
心地よい緊張感で存在して成長させてくれる
さて、到着したかな」
一綺さんによって連れていかれた場所は、
山の中だった。
山荘が目の前にあって、
少し離れた先に庭園が広がっていた。
その中央ガーデンの真ん中に、
静かにたたずんでいるブランドピアノ。
「こんなところに、ピアノがあるんですね」
「いい場所でょ。
ここは彩音の別荘。
そしてあの庭園のピアノは、紫音さんの音色を楽しみたい一心で、
父が我儘を通して作られた」
そういって、グランドピアノへと近づいていくと、
一綺さんは蓋を静かに開けて、
ゆっくりとピアノの前へと腰かけた。
軽く目を閉じてから紡がれる曲は、
ショパンのバラード。
瞳矢が演奏する、懐かしい雰囲気を醸し出す演奏とは違って
キラキラしている。
一綺さんの奏でる調べが、周囲に広がっていく。
気が付いたら、
無意識のうちに私も指が空中で動き始めていた。
「穂乃香ちゃんも一緒に弾こうよ」
そんな声に誘われて、久しぶりに鍵盤へと指をのせた。
無我夢中で演奏したそれが、
私の音色かと問われればわからない。
だけどその一瞬の時間は、
私にとってかけがえない時間で、
演奏していて楽しいと思えた。
そのあとも何曲も一緒に一綺さんと奏でる。
そんな時間がただ、ただ優しいと思えた。
その日を足掛かりにして、私は一綺さんや彩音のおじさまにいろんなところへ
連れて行ってもらえた。
ある時は、プライベートビーチの砂浜にセットされたグランドピアノを奏で、
ある時は公園にあるグランドピアノ。
ストリートピアノに近いシチュエーションで作られたグランドピアノ。
その先々で音色を奏でて、ピアノに触れるたびに
白黒の音の世界がに色が塗り広がっているのを感じた。
家の中で必死にコンクールの曲と向き合いながら、
息が詰まって追い詰められて演奏が出来なくなってしまった時間。
だけど今は、あの時演奏できなかったメロディーを
奏でることができる。
「おじさま……どうして……」
「スランプの原因はいくつか心当たりがある。
大自然は時に寄り添って大きなパワーをくれる。
昔、紫音にもそんな時期があった。
その時もこんな風に乗り越えたんだよ。
あの頃は今みたいにストリートピアノも多くなかったけどね」
季節は進んで10月下旬。
コンクールまで後、2週間となった今、
私は彩音の家のピアノを借りて、
ひたすら追い込みの時間に入る。
ショパンピアノ協奏曲第一番変ホ短調作品11
ピアノの詩人と詠われたショパン。
その音色とひたすら向き合いながら練習を重ねていく。
そしてもう一曲も、自由曲として演奏するのは、
「邂逅」と名付けたオリジナルの一曲。
ピアノコンクール本番に向けて、
私はようやくスタートラインに立てたみたいだった。