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さよならを



「――あっ」
「……ッは……咲……!」

楠木(クスノキ) 咲(サキ)。それが一応と付けられた私の名前。目の前で一心不乱に腰を揺らすこの男は誰であっただろう。昔……といっても数年前に名乗られたハズ。なのに、最近頻繁に行われるこの行為のせいで全てがどうでも良く思えてきたからか。全くこの人間についての情報が脳味噌から叩き出されてしまった。

――"この方が新しいお父さんよ"
――"よろしく、咲ちゃん"

肩に力強くかぶりついて来た得体の知れない獣には目もくれず、私は視界を遮断して、実の母の幸せに満ち足りていた笑顔を思い出す。

――"仲良くしましょうね"

嗚呼、あの時までは確かに「幸せ」だった。
ギャンブル三昧の父と離婚し、再婚して、新しい家庭を築いて……。私も、確かに「愛」を感じていた。

「んッ……〜〜ッ!咲ちゃぁん、咲ぃ」


――"この泥棒猫!"

あれほど激昂した彼女を見たのは初めてのことだった。確か、私が高校二年生の秋頃だと思う。
いつものように帰宅し、ただいまと挨拶を終えて自室へ向かい制服のボタンを外そうとした時。突然扉が開いて……。

気が付けば、再婚相手のこの男に組み敷かれていた。
運悪く母は仕事の都合で、いつもより早い帰宅だった。階上から漏れる卑しい物音と悲鳴が聞こえただろう彼女は、大きな音を立てて階段を登り、そして、
扉に手を掛けた。

望んでもいなかった。絶望さえ感じていた。
私は微塵もこの男に好意を抱いたことがなかった。

しかし彼女はそんなもの御構い無しに、私の頬をひどく打ったのだ。

痛かった。涙が出た。辛くてどうしようもなかった。
私のお母さん。前のお父さんの暴力から身体を張って助けてくれたお母さん。

誕生日の日、私を膝の上に乗せて、クマのぬいぐるみをプレゼントしてくれたお母さん。

「咲ッ咲ぃ……ンっ、愛してるよ……」

――"おかあさんは、どうしてさきをまもってくれるの?"
――"あなたを愛しているからよ"



お母さん。



――"お母さんは、どうして私を打つの?"

――"お前が憎いからよ"

私の世界は、あの時終わった。




「アンタのそれは、愛じゃない」
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