phantom
ぱちり。

目が醒めた。昨日あんなに乱れていた男の姿は見えない。汚れなどでくすんだカーテンを少し開き目を覗かせても、空は変わらず鮮やかな水色を保っている。

そう言えば、お風呂にまだ入っていなかったな。それを終わらせてから、私も外に出てみようか。

*

身支度を整えてサンダルに履き替え、玄関を出る。
閉ざされた、アイツの臭いしかしない家になんて、一秒たりとも居たくないのだ。

(気持ち悪……)

あの縋るような声が頭に反響する。吐き気が襲ってきた。足早に賑わいだモールを通り過ぎて、無人の公園に急ぐ。ベンチに座って休憩しよう。

嗚呼、それにしても。

どうして私は逃げることが出来ないのだろう。否、逃げようとしないのだろう。
前の父からも今の父からも姿を消したのは母だった。私の母はすぐ行動に移すことが出来たのに。私は彼女にただ着いて行って、ただそれだけ。

何もやろうとしない、自分からは。

とても臆病で面倒な人間。

大きく息を吐くと同時に、強い風がひと吹きした。
暴れる髪の毛を乱雑に抑え、でもそれも面倒になって、諦めて手を離す。

(ああそうか)

私はすぐ諦める人間なのか。
何をされても、諦めの気持ちが先立って、「嫌だからやめて欲しい」なんて口に出したことはなかった。
どうせ言っても聞いてくれないだろうという諦めが、私を支配していたのかもしれない。

「諦め……」

口に出すととてもしっくりくるこの言葉。自分の人生を一言で表すなら、これが一番ぴったりなのではないだろうか。

適当に思ったことを言葉に直して復唱していると、突然風が止んでしまった。

(もっと吹いてくれてもよかったのに)

緩慢な動作で立ち上がって、背中を反ってストレッチする。ぱきぽきという音に半ば快い気持ちになりながら、私は唐突にこう思った。



「アイツから逃げよう」、と。
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