phantom
「逃げる」。

そう考えたはいいものの、具体的に何をするのか。行くアテは勿論無い。母方の親戚とはとうに縁を切られているし、前の父にもその関係者にももう関わりたくはない。義父の親族とは交流が全く無かったから、今更頼れる関係でも無い……。

学校なんてものに期待はしていないし、連絡したとしても義父に伝わって結局は連れ戻されるだろう。

「だめじゃん……」

八方塞がり。
だからってあの家には戻りたくないし……。

もう死ぬしかないのかな……。

私がどうなっても悲しむ人間なんて居ない。死体の処理については、迷惑をかけるかもしれないけど……あと目撃者には精神的な苦痛を与えてしまうかもしれないけど……。

(そうと決まれば……)

山奥に行って死ぬのはどうだろう。死体はすぐ発見などされないし、微生物が分解してくれたり、森の動物が食い尽くしてくれたりするのではないか。

山は……この公園を突っ切って、道路を越えた先にある。さっさと死に場所を探そう。






この時、私は完全に忘れていた。
そして、理解していなかった。

義父の存在を。彼の異常なまでの執着心を。






公園から出て直ぐ、思い切り右腕を掴まれる感触がしてその方向を見ればそれは、恐ろしく醜い表情をした義父であった。
これでもかと言う程皺を寄せた眉間に、見ているこちらが痛いぐらいにキツく噛まれた唇。血走った眼。

脳内に警鐘が鳴り響く。このままのこのこ家に戻れば想像もつかない目に遭うと。危険だと。

「〜〜ッ!!離して!」
「煩い!咲てめぇ逃げる気か!?俺はそんなの認めないぞォ!」

はたから見ればただの男女の喧嘩なのだろう、周りの人間が助けに入ってくる気配は無い。ああもうダメなのか。私はこの先一生こいつの奴隷となってしまうのか。どれだけ泣き叫んでも助けてもらえない地獄、奈落に放り込まれてしまうのか。

……もう、諦めてしまおうか。

大人しく着いて行ってしまおうか。でもそうすれば私の未来は確実に無くなってしまう。……いや、元々未来など無かったんだ。あの優しい母が亡くなった瞬間に、私の世界は壊れたのだから。

今更、何があったって……。

「早く来い!抵抗するんじゃない!!」

揉み合いの最中引っ掻かれた手の甲、噛まれた肩がヒリヒリと痛みを訴える。気のせいか母に罵られ打たれた頬も、何故か痛んできた。




――お前が憎い
――この泥棒猫
――彼と仲良くしてね
――あなたが巡り合わせてくれたのよ
――咲は私の支えだから……
――咲、あなたさえ居てくれれば私は何も怖くないの




――あなたを、愛しているからよ



「……お母さん……」
「は、?何言ってんだ咲」

諦めたくない。
確かにお母さんは最終的には私を嫌った。けれどもあの時見せてくれた愛は本物だと。
私は信じたいから。

――もうあの人を裏切るようなことはしたくない。




「ッ離せクズ野郎!」

ずっと黙っていたからか、拘束が緩んだその隙を見計らって思い切りその汚らわしい手を振りほどく。そして弾き出されたように走り出すと、案の定奴も追いかけて来た。






心臓がはやる、血液が全身を巡る感覚を直に感じる。息があがって、上手く腕も振れなくなってきた。足がもつれそう、転けてしまう、捕まってしまう!







「咲ぃ!!」



怒鳴り声ではなく、どこか焦った声色。

その時やっと、自分が身体の事ばかり意識して、周りを全くと言っていいほど意識していなかったこと。












自分からトラックに突っ込んでいたことに











気付いた。





瞬間飛び散る肉塊。頭部は破裂、四肢は断裂してあちこちに転がっていくのが感覚として分かった。ぽろりこぼれた眼玉はタイヤにぐちょりと潰されて白い粘液を撒き散らし、脳味噌は無色透明の髄液と共にごちゃまぜとなって運転席の窓ガラスに張り付く。

死んだ。


楠木 咲は息を引き取った。この世から消えてしまった。

トラックに飛ばされ、まだ綺麗だった頭が宙に浮かんでいた時。


私ははっきりと見たのだ。



"「逃げて」"と、あの男の背後で卑しくニヤついていた母親と、









黒いシルクハットを被った謎の人間を。



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