やさしい眩暈







「今日、夜10時にうち来いよ」



リヒトからの電話。

素っ気ない声で一言だけ告げて、すぐに切れる。


でも、そのたった一言で、

私は店じまいをいつもの倍くらいの早さで終わらせて、バイト先を飛び出した。


白い息を吐きながら冬の夜の冷気の中を走り抜け、電車に飛び乗る。



リヒトは、私にとっての絶対的な君主だ。


いつどんな時でも、リヒトが私を呼んだら、一も二もなく私は飛んで行く。


私はリヒトの魅力に囚われた虜で、

リヒトには決して逆らえない下僕だ。




「………おせえよ。何分待たせんだよ」



玄関のドアをゆっくりと開いた私の絶対君主は、不機嫌さを隠すこともなく、美しい眉をひそめて私を見下ろしている。



「ごめん………バイト、9時半までだったから」


「知らねえよ、言い訳すんな。腹へってんだよ、はやく飯つくれ」


「ごめん。すぐつくる」



朝の7時半から夜の9時半まで、ほとんど休憩もとれずに立ち仕事をしていたから、身体は泥のように疲れきっている。


でも、私は一瞬たりとも座ったりせず、玄関を入ってすぐの台所の前に立った。



調理台の隅っこに、真紅のつけ爪が二枚、転がっている。


シンクには長い茶色の髪が数本散っている。


リヒトはつけないはずのコンタクトレンズが一枚、まだ潤いを保ったまま排水口の近くにへばりついていた。



それら全てを見なかったことにして、私は料理にとりかかる。




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