柴犬主任の可愛い人
 
 
――……


「送ってくれてありがとうございました。……でも、私大丈夫なのでこれからはやっぱり……」


「駄目です、いけません。そもそも負担を感じてないことに謝られるのは勘弁です」


その目は、いつもより私のことを心配してくれていた。今日はやっぱり食が進まなかった。


「柴主任」


「はい。なんですか?」


「お……」


お見合い、上手くいったみたいで良かったですねと口走ってしまいそうになった。思い止まったのは、立ち聞きした話を振るのはそもそも非常識だし、そんなことをしたと呆れられるのが嫌だったから。


ただの、保身だ。


「……おやすみなさい」


絞り出した声は、どこもおかしくない?


「おやすみなさい。風邪ひかないように。今日は薄着だったですしね」


いつもと変わらない様子で、いつもより少し私を気遣って、柴主任は帰っていった。


私が横にいるときはゆっくりと、ひとりになると自分のペースで歩き出す柴主任の背中を見送り、心が激しく収縮する。


ああ、大好きだなと感極まって視界が潤む。


先週まで住んでいたマンションとこことを繋ぐ近道なんてやっぱりなくて、平然と嘘をつくところが憎らしくて、それ以上に愛しい。


いつも穏やかでいる強さに泣きたくなる。


お世話になりっぱなしだったな。


馬鹿兄と遊んでくれるなんて菩薩だ。もし私だったら、私が柴主任の相手だったら、例えちょっと特殊な趣味だろうがなんだろうがお付き合いしてみせるくらい、ずぶずぶに溺れています。


……なんで、私じゃないのかな。


好きな人がこっちを向いてくれないなんて、珍しくもなんともないし、私は柴主任が敬遠する職場の人間だ。仕方がない。そんな対象じゃない。はなから違うポジションだったし。


お見合い相手、可愛い人で良かったですね。


悔しいです。いつ? つい最近までは、架空だったはず。




募る想いに膨れる嫉妬。私のそれはもう、柴主任のこれからにとって害悪でしかなくなる。


せめて、柴主任が誰かをもう一度好きになれて、幸せになるまでは……――


困らせてしまうなんて絶対に嫌だから、臭いものには蓋をする。汐里に言った宣言を、実行すればいい。


今がそのときだと、私はもう知ってしまったんだから。









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