柴犬主任の可愛い人

 
 
ここはなんて心地のいいお店だろうか。来店三十分も経たないうちから、通い詰める己が容易に想像出来てしまった。
元々、緊張はすぐに解ける気質だから、三年以上入るタイミングを逃してたお店でも、最初のグラスビールを空にする頃にはかなり寛いでいて。このお店の雰囲気がそうさせてくれる要因も多大にあるけど。


緩んだ頬に気付いたのか、美人店員なお姉さまと少し談笑をすることも出来、お姉さまは女将なことが判明。女将なんて恥ずかしいわ、なんて照れる美しい様子には、少し前に帰ってしまった男性客よ損したなと叫びたくなった。
ちなみに、寡黙な板前さんが店長で、女将さんの旦那さまだった。どうぞ宜しくとひきつった頬で挨拶されたのが二度目に耳にした声で、寡黙じゃなくて緊張しやすく、且つそれが持続する人なのかもと推測をする。


「女性のお客様は多くないので、今日は華やかだわ。嬉しい。ゆっくりなさっていって下さいね」


「はい。ありがとうございます」


お言葉が嬉しく、体重にはよろしくない注文のラインナップや、帰る時間を気にしてた考えは何処かへ消え失せる。
グラスビールを再度注文して、メニューや本日のオススメを無心で見上げていると、ひとつ開いた隣の席の客から声をかけられた。


「そんなにお腹が空いていたんですか?」


「あー、はい、そうですね。朝からちゃんと食べてなくて。送別会でも枝豆とかを流し込んだ感じで」


「そういえば、そうだったような」


「今ならいくらでも食べちゃいます。お財布が許してくれるなら」


私は、その人が席に着いたときから今まで、そちらに目をやったことはなかった。だっていつの間にか座っていたものだから、気にするタイミングもなかったし、不躾なことも出来ない。
せめて、初めにちゃんと、メニューから一旦視線を外して、受け答えすべきだった。
後悔は後の祭りだ。


「では、これを食べて下さい。僕の作ったもので申し訳ないのですが」


けどそうしていれば、声の主にあんなことをしてしまわなかった。


「いえそんな…………っ、ぶほぉっ!! はぁっ!? えっ、何でっ!? てかきゃあぁっ、ごごごめんなさいっ!!」


そうしていれば、口に含んだビールを、横を向いたところにいた声の主に吹きかけたりしなかった。
かもしれない。


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