終われないから始められない


救急病院に着いた時、私は放心状態で、運転手さんの呼び掛けにも何も反応しなくなっていたらしい。

ここは病院だ。
運転手さんが看護師さんを呼びに来たらしい。

タクシーに乗り込んですぐ救急病院と言ったんだ。しかもこんな状態で反応しない。余程の事に違いない。
運転手さんには経験がある。幾度となく、救急病院、と指定されて、乗りつけた事か…。

身体に腕を巻き付けてガタガタと震える私を見て、事故か何か解らないが、搬送された人の関係者だろう、と。

確か、ヒロト、と呼び続けてました、運転手さんが告げると、看護師さんは解りましたと、力無く座り込む私を引き取ってくれたらしい。

「しっかりしてください。
貴女は内田弘人さんの関係者の方ですね?」

そう言って、支えるように一緒に歩いてくれたらしい。
グッタリして自分から踏み出そうとしない私は、さぞかし重かっただろう。

嫌、そこには行きたくないの。
そんな冷たくて淋しい所になんか行きたくない。

長椅子に座るよう促された。

「少しここで待っててね」



コンコンコン。
看護師さんが霊安室のドアを開ける。

「嫌よ…、弘人?目を開けなさい。弘人!弘人…目を開けて!」

ぼんやりとした頭におばさんの声が聞こえて来たような…。水の中に居るみたい…。

立ち上がり、覚束ない足取りで壁伝いに進む。

「弘人…、弘人ぉ、お願い、逝かないでちょうだい…」

ああ、やっぱりおばさんの声…弘人?弘人が居るんだ。


看護師さんがおじさんと一緒にこっちに来てる。

「祐希ちゃん…」

「…おじさん、弘人、起こしに来たのよ。
おじさん、起きないって言うから…」

「祐希ちゃん…」

「約束してるんです。
今日ね、遅くなっても必ず行くからって、弘人、言ってたの…」

「祐希ちゃん…、聞いて欲しい」

肩を抱くようにゆっくり椅子に座らされた。

ああ…、おじさんの顔、眉毛と口が弘人に似てる…。


「…弘人はね、職場を出て歩いてたらしいんだ。
少し前をおばあさんと男の子が歩いていたらしい。
…目撃者が沢山居てね。
男の子は、どうやら4月から一年生になるみたいだったらしいね。
おばあさんと通学路になる道を歩いていたらしい。…通学の練習だ。
真新しいランドセルを背負ってね。
きっと…、買ったばかりで嬉しくて、お店から背負って帰ってたんだと思うよ。
大好きなおばあさんとご飯を食べてね。

…一瞬の事だったらしい。
嬉しくて走ってた男の子は、信号に気がつかなかった。
歩行者の信号は赤だったんだ…。

運悪くトラックが向かって来てね。
おばあさんは気がついて、孫の名前を叫んだそうだよ。…喉が裂けそうなくらい大声でね。
…聞こえても、もう間に合わなかった。
トラックは迫ってた。

…弘人はあの体格だ。
直ぐ近くにいたんだ。
…男の子目掛けて走ったんだよ。間に合う、助けなきゃってね。

男の子を庇うように抱え込んで、…そして跳ねられた。

…あいつは…、弘人は…、決して男の子を離さなかった。
駆け付けた救急隊員が声を掛けても中々離さないほどにね。
…その時は、弘人…まだ意識はあったんだよ。

男の子は正面から抱かれていたから、後ろはランドセルがクッションの役目を果たした。
頭を打ったようだけど、弘人の左腕が回されていたから…守られたんだな…、異常は無いそうだ。
身体は足の擦り傷程度で済んだ。

…弘人は、ウッ…、不思議なくらい綺麗なんだ。
…優しい、穏やかな顔で、ウウッ…、眠ってるみたいに。

全身、打撲してる。
でもね、顔には傷一つ無いんだ。綺麗な顔で眠ってるんだよ。

…祐希ちゃん。
逢ってやってくれ。
約束してたんだ。
あいつは、…弘人は、祐希ちゃんに逢いたいはずだ…。今も、祐希ちゃんを待ってるよ」

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