蜜愛フラストレーション

病室に戻った私が扉を開けると、その向こうにはひらひらと手を振る百合哉さんの姿があった。

「お帰り〜」

目をぱちくりさせる私の元に歩み寄って来た彼は、にっこり微笑むとソファ席に誘導した。

そして冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、ストローを差して手渡してくれる。

ひと口飲むと、ピリリと口内に痛みが走ったものの、ひんやりと冷たい水が喉を潤してくれた。

口の端も切れてあまり唇を動かせないので、頭を下げて感謝の気持ちを伝えようとする。

「忘れてた!コッチのが楽でしょ?」と言って、収納棚からスケッチブックを取り出してくれた。

受け取って笑い返したけれど、きっと表情にはあまり出ていないはず。

そんな私にとびきりの笑顔を見せてくれる百合哉さんに、心がじんわりと温かくなっていく。

隣に座った彼はスーツ姿で、きっと仕事を中抜けしてきたはず。

ペンを握った私が“ご”の字を書いた瞬間、「謝らないで」と先手を打たれてしまう。

手を止めて隣の彼を見やると、穏やかな顔で「礼ならいくらでも受け取るけどね?」と言われた。

私が諦めたように頷くと、にっこりと満足げな表情に変わる。

「もう遥香……紀村から聞いてると思うけど、諸問題は解決してるから安心していいわ。もう何の心配もいらない」

“でも、皆さんに迷惑をかけて”

「迷惑だって思うんなら、俺や兄貴、遥香にしても一生懸命にはならない。ま、それ以上に優斗は萌ちゃんのためにしか動かないけどねぇ。これってスゴいことだよ」

百合哉さんの言葉に小さく首を傾げたら、ふっと眦を下げた彼が続ける。

「萌ちゃんって、実は良い意味でブラックなんだよね。でも、それは隠してるところが魅力かな。なんかこう、夕顔みたいに薄皮をどんどん剥いてくのが楽しいもん」

“夕顔って……たとえが微妙”

「肌理が整っててツルツルしてるとことか、一皮剥けても本質が変わらないとことか、言い得て妙じゃない?」

“褒められてる気がしないよ”

病室に響くのは百合哉さんひとりの声のみ。それでも私に気負わせないのは、彼の持つ温かさの賜物なのだろう。

「それは私の役目じゃないもん。萌ちゃんを溺愛してる優斗なら、砂糖より激甘な言葉くれるわよ〜。
あ、言い忘れてたけど、優斗も今から会社出るって、さっき連絡来たから。良かったね〜」

ああ言えばこう言われて。したり顔の彼に対し、もうペンを持つ手は動かない。

優斗がやって来る。そう言われて、緊張と喜びと不安が一気に心の中を埋め尽くしていく。

< 167 / 170 >

この作品をシェア

pagetop