蜜愛フラストレーション
たとえば仕事中、不意に彼と視線が重なると嬉しくて、その日はささやかな幸せを感じたり。次の約束が待ち遠しくて彼を一瞥すれば、いつでも努力するその姿に、負けていられないと仕事にも張りが出るようになった。
好転した毎日の中、親しくなるほど彼への信頼と尊敬は高まり、心が傾いていくのも自然なことで。——仄かな熱に浮かされ始めたのは、結局いつの頃だったのだろうか……。
* * *
ふぅ、と嘆息した私は短い回想の旅路から戻ってきた。
手にした幸せを自ら失うとも知らないで、ただ好きでいられた時にたまに戻りたくもなる。
それは無理なことだと自嘲して視線を元に戻すと、正面にある鏡と向き合う。そこへ、トントントンと化粧室の出入口のドアを叩かれた。
「萌ちゃん大丈夫?気分でも悪い?」
「すみません、大丈夫です!今行きますね」
慌てて返事をしたところ、ユリアさんがドア越しに声を掛けてくれたのですぐにドアノブへ手を伸ばす。
開いたドアの先には化粧室から遠慮がちに離れて待つユリアさんがいて、「急がなくて良いのに」と苦笑されてしまう。
「ユリアさんありがとう、もう大丈夫」
「そう?」
心配げな眼差しを向けられるのでお礼と曖昧な言葉を返す。短い反応からはユリアさん自身がどう捉えたのか分からないが、いつものようにもう踏み込んでこない。
ふたりで並んで来た道を戻って行く途中、うんざりした顔のユリアさんから迎えに来た理由を教えられる。
「酔っ払って具合悪くなったのかと思っていたから、ひとまず安心したわ」
「すみません。でも、あれくらいの量で酔っ払うならユリアさんとは飲めません」
「まあねぇ。それより、優斗の心配性が再発したからどうにかしてよ?」
「え、私が?」
「萌ちゃんがキスなり抱きついてやるなりすれば一発で回復するし」
こちらの心情とその後のダメージには気遣いなしなところがじつにユリアさんらしい。
「萌ちゃん帰って来ないから、体調悪いのかもってうるさくてさぁ。ったく、自分で行けっての」
話している最中でも、オーナーらしくお客様の近くを通る時には上品に挨拶をして行くが、最後の私だけに聞こえた呟きは穏やかな声音とはほど遠い。
賢く立ち回りをするその姿は、私が社会人になる前になりたいと憧れていたもの。まともに過去を処理出来ないでいる私とはまさに雲泥の差。そんなユリアさんのことを顎で使う彼こそどうかと思うのだが。
カウンター席へと続くまわり角に差しかかった時、こちらに歩いて来る北川氏と鉢合わせた。
虚を衝かれた私が見上げると、その場で足を止めた彼と目が合う。その刹那、私とユリアさんとの間に笑顔の彼が割り入って来る。
何故か横並びとなり呆れ顔のユリアさんを見事にスルーした彼は、「萌、大丈夫?気分悪くなった?」と私の顔を覗き込んでくる。
瞠目する私に対し、「萌?」と返事を促してくるので、縮まる距離と不意の優しさで覚えた胸の痛みを打ち消すようにひとつ頷いた。
「はいはい、早く席戻るわよ。面倒なヤツね」
そこへ割り込んできた声に、嘆息とともに彼の視線が反対側に向けられる。
「ユリアほど拗らせてないけど?」
「オマエが言うな!よし萌ちゃん、早く飲み直すわよ!今日は優斗の奢りだから!」
「本当?じゃあ、遠慮なく飲ませて貰います」
「萌……早くふたりきりになりたいんだけど」
軽口を叩き合うはずが、不意に甘さと熱の孕んだ声音で囁かれる。冷めたはずの身体はぞくりと粟立ち、動揺から思わず息を呑んだ。
さらに透明度の高い、艶やかな茶色の瞳と再び視線が重なる。真剣な眼差しに心の内を全てを見透かされてしまいそうな気がして、どうしても怖さが先立ってしまう。
もちろん、彼の態度は初めて会った時から何も変わらない。——変化してしまったのは、私たちの関係と、彼と素直に向き合えなくなった私なのに……。
「行こう?」
そこで所在なげに俯く私の肩に手を回して引き寄せた彼はカウンター席まで誘ってくれる。
腕の安心感に包まれる中、爽やかな香りが鼻腔を掠めていく。そして、この優しさに触れる度、やはり彼への気持ちは振り切れないと悟ってしまう。