やさしい恋のはじめかた
 
桜汰くん--澤村桜汰は、私より3つ年上の美容師で、当時、大学進学で地方から出てきたばかりの頃の私に、往来のど真ん中でカットモデルを頼んできた駆け出しの美容師だった。

専門学校を出て、就職して、2年目。

桜汰くんが21歳で、私が18歳。

それから10年。

今年の誕生日が来れば、それぞれ32歳と29歳、世間的に見てもいい大人な歳になる。


そんな、仕事に脂が乗り始めた桜汰くんに前髪を整えてもらったのは、先週の金曜日のこと。

最近の仕事が上手くいっていないことと、約束していた彼氏との飲みが急な接待が入ったとかでドタキャンになり、無性に桜汰くんに髪を切ってもらいたくなったからだった。

残業を終えた足で桜汰くんが勤めるヘアーサロンへ行くと、営業後なのにも関わらず店の明かりが点いていて、中を覗くと、一人黙々とマネキンのヘアカットをしている無精ひげがトレードマークの彼が当たり前にそこにはいて。

なんの躊躇いもなく店のドアを叩き、仕事や彼氏の愚痴を零しながら髪を切ってもらった。





「じゃあね、里歩子。あんまり無闇に髪切るんじゃないよ? 少なくとも1ヵ月は我慢しな」

「……善処します」

「絶対だよ?」

「う……ん」


昼休みの間中、雪乃にお説教を食らい、それなのに社員食堂を出るときにまで釘を刺されてしまった私は、呆れた溜め息を零す彼女の冷たい視線から目を逸らし、コクリと頷いた。
 
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